曲の余韻の中で、さよ子さんに呼ばれた。
「海牙さん?」
 ぼくは目を開ける。正直に言った。
「いいですね、彼らの音楽」
「海牙さんの普通の笑顔、初めて見た! いつももっと計算高そうな笑顔ですよね!」
「本人の前でその言い方をしますか」
 一時間半のライヴは、あっという間だった。ぼくはほとんどずっと目を閉じたまま、心地よい音楽の中にいた。
 だから、隣に立たれていたことに、しばらく気付かなかった。
 ライヴ終了のMCが聞こえて目を開けて、右の頬に視線を感じて、ハッとした。
「リアさん!」
「こんばんは」
「聴きに来られてたんですか」
「弟の友達なのよ、彼ら」
 彼らというのは、もちろん瑪都流のことだ。理仁《りひと》くんは少し離れた場所で、ナンパでもしているのか、女の子たちと話している。
「ぼくも人に誘われて聴きに来たんですけど」
「さっきまですぐ近くにいたショートボブの子でしょ? きみの彼女?」
「違います。全然違います。お世話になっているかたのお嬢さんで、ぼくは護衛を頼まれただけです」
「ふぅん。ねえ、ちょっと横向いて。さっきみたいに」
「こうですか?」
 突然、リアさんの手がぼくの頬に伸びてきた。反射的にビクッとしてしまうのを、うっかり制御しそびれた。
 リアさんの指先は少し冷えている。その指が、ぼくの髪をそっと持ち上げた。
「前髪の形、どうするのがいいかしら? 長めでもいいと思うけど、今はちょっと長すぎ。それにしても、横顔、ほんとにキレイね。まつげがまっすぐで長くて、うらやましい。天然つけまつげだわ」
「最後の一言、矛盾してません?」
「肌もキレイ。お手入れも何もしてないんでしょ? ずるいなあ」
 かすかな夜風が吹いた。肌寒い空気に、ふわりとしたいい香りが混じっていて、ぼくは思わず息を止めた。
 たぶん、リアさんの髪の匂い。それとも、肌にひそませた香水の匂いだろうか。
 不自然な沈黙が落ちてしまった。ぼくは浅い息をして、体をこわばらせたまま言った。
「すみませんが」
「何?」
「動いてもいいですか?」
「ダメ」
「……あの」
「冗談よ。ゴメンね、急に。きみの横顔を見てたら、どうカットしようかなって楽しみになって。今度の月曜、できれば私服で来てね」
 当然のことだけれど、髪に神経は通っていない。だからぼくはリアさんの指の感触を知覚したわけではないのに、変だ。髪のあたりからふわふわと発熱するようで、息が苦しい。
「服はヴァリエーションがなくて。モノトーンしか持ってません」
「無難すぎ。派手な色でも着こなせそうだし、かわいいと思うわよ」
「かわいいって」
 ぼくはそんなタイプじゃないのに。
 瑪都流は楽器を片付けながら、気さくな様子で聴衆と話をしている。唯一、ヴォーカリストの煥くんだけは、さっさと輪を離れた。が、クールな一匹狼に、果敢に声をかける勢い余った姫君が二人。逃げ腰になる煥くんには同情を禁じ得ない。
 栗色の髪のギタリストは作曲とコーラスもこなして、MC担当のバンドマスターでもある。理仁くんが彼に話しかけると、まわりは女の子でいっぱいになった。
 リアさんが紹介してくれた。
「理仁と話してるのが、伊呂波文徳《いろは・ふみのり》くん。ヴォーカルの煥くんのおにいさんで、理仁が気を許してるたった一人の相手ね」
 気を許せる友達。ぼくにとっての瑠偉みたいなものか。
 人の輪の中心に立って、理仁くんは楽しそうに笑ったりしゃべったりしている。ぼくに向けていた社交的な笑顔よりずっとリラックスしているように見えるのは、リアさんから文徳くんの紹介を受けたせいだろうか。
「理仁くんに話したいことがあるんですが、しばらく待つ必要がありそうですね」
「話って、四獣珠のこと? 今この場に四つともがそろっているんでしょ。理仁がそう言ってた」
「リアさんは、四獣珠について、よくご存じなんですね?」
「そうね。海牙くんより知ってると思うわ。朱獣珠には振り回されてきたの」
 含みのある口調だった。それに続く説明があるかと思って、ぼくは黙って少し待った。でも、リアさんは何も言わない。結局、ぼくが再び口を開く。
「宝珠は本来、バラバラの場所で眠っているべき存在だと聞いています。預かり手は、宝珠に願いをかけることは禁忌で、ただ預かって次代に渡す。ぼくは生まれつき、預かり手という厄介な役割を担っていますが、聞いていた以上の厄介事が起こりかけているようです」
「起こりかけている、じゃないわね。すでに起こってしまっている。この十数年、何度も宝珠を使っている人物がいるから」
「なぜ、そんな……」
「そんなこと知ってるかって? 今はまだ訊かないで。全部を話せるほどの深い仲じゃないでしょ?」
 冷たく強い口調に、ぼくは、息の根を止められた思いだった。
 口角の上がった唇の形にだまされていた。リアさんが微笑んでいるとばかり思っていた。違う。リアさんの目は今まで一度も笑っていない。
 理仁くんがぼくを見て、リアさんと同じ笑い方をした。
 彼は文徳くんのそばを離れて、煥くんに声をかけた。煥くんは素直に応じて、理仁くんと一緒にこちらへやって来る。さよ子さんと鈴蘭さんもくっついてくる。
「ってことで、四獣珠関係者、集結~。いやぁ、奇遇だね」
 のんきな口調で言う理仁くんに、さよ子さんが声をあげた。
「理仁先輩もチカラの持ち主だったんですか!」
「え、さよ子、この先輩のこと知ってるの?」
「鈴蘭、何で知らないの! イケメンで気さくで優しいって、超有名なのに!」
 理仁くんが仕切って、簡単に自己紹介し合った。
 煥くんの声は、歌っていなくても特徴的だった。ささやいているようでいて、よく通る。彼の身長が意外と低いことに驚かされた。1,704mmといったところだ。歌っているときの存在感は、実際の身長や体積を超えて、もっと大きかった。
 琥珀色の目をきらめかせて、煥くんは理仁くんをにらんだ。
「それで? 預かり手を集めて、何のつもりだ?」
「おれが集めたわけじゃないよ。白獣珠も言ってない? 『因果の天秤に、均衡を』ってさ」