二年生の教室まで文天堂祥之助に会いに行く必要はなかった。ぼくと瑠偉が正門の前に至ったときだ。
 正門前には、生徒の送り迎えを想定した自動車用のロータリーがある。そこにドイツ製の黒い高級車が停まった。
 ボディガードが先に車を降りた。後部座席のドアを開けて敬礼する。
「行ってらっしゃいませ、祥之助さま」
 抜群のタイミングで姿を現した彼が、文天堂祥之助らしい。背丈は1,750mmほど。二年生としては、やや高い部類に入る。
 瑠偉が肩をすくめた。
「あれが噂の文天堂祥之助だ。天から二物を与えられたって評判の、なかなか華やかな顔してるだろ」
「天から二物程度なら、全然珍しくもないんですが。ぼくはもっと持ってますし」
「人前でそういうこと言うの、ほどほどにしとけよ」
 祥之助の両目の色に違和感があった。直感的に、黄色いと思った。でも、改めて観察しても、ただのブラウンだ。カラーコンタクトレンズでも入れている?
 玄獣珠が、かすかに何か言った。いや、そんな気がしただけだろうか。
 立ち止まっていたぼくと瑠偉に、祥之助は顔をしかめた。
「邪魔だ。そこ、どけよ」
 挨拶もなく、傲慢なセリフ。声変りしたばかりのような細い声なのが、命令口調の生意気さに拍車をかけている。
「年上の人間に対して、初対面で、その口の利き方ですか?」
「はぁ? 年上が何だって? ちょっと先に生まれたくらいで、無条件に敬われるとでも思ってるのか?」
「その考え方には同意しますが、いきなりケンカ腰で命令されるのはいただけませんね。ぼくのような天邪鬼《あまのじゃく》を前に、きみの態度は最悪に愚かしいふるまいだと忠告しておきますよ」
 瑠偉がため息交じりに言った。
「おまえこそ、口調だけソフトでも、ケンカ腰じゃないか。いちいち過激なんだよ、海牙は」
 祥之助が目を剥いてのけぞった。弾んだ前髪の動きが妙に硬いのは、ワックスでも使っているんだろうか。そういえば、眉の形も整えてあるし、香水のような匂いもする。
 オシャレに手間をかける人間が大都高校にいるなんて、ちょっと想像できなかった。何せ、のっぺりしたグレーの詰襟をキッチリ着るせいで「墓石」とからかわれるのが、伝統的で典型的な大都高校の生徒だ。
「海牙って、おまえが、あの阿里海牙?」
「フルネームの呼び捨てとはまた失敬ですね。まあ、何にせよ、ぼくのことをご存じでしたか」
「知らないはずがないだろう。ボクはずっとずっとずっと……」
 祥之助の両目に光が宿った。黄色い光、みたいなものが。
 玄獣珠がドクンと激しく鼓動する。瑠偉がハッと顔を上げる。
 ざらざらとして低い声が祥之助の口から染み出した。
【ずっとずっと、我は、汝《なんじ》らを怨《うら》んできた……】
 祥之助の口が動いた。声変わりしたばかりの細い声が言った。
「おまえを怨んでいる。こうも立て続けに屈辱を与えらえたのは初めてだ。許せない」
「怨む? 何のことです?」
 ブラウンの目がぼくをきつくにらんでいる。玄獣珠は反応しない。
「ボクはおまえを超えなければならない。しょっちゅう学校を抜け出して遊び歩いてる程度のおまえなんかに負けていられない」
「超えるって、成績のことですか?」
「現時点では、阿里海牙、おまえが去年叩き出した全国模試の順位や点数のほうが、ボクよりも上だ。でも、これからボクが引っ繰り返してやる。ボクは必ずおまえに勝たねばならない。なぜなら、ボクには背負うべきものがあるんだからな」
「背負うべきもの?」
「ボクには将来が約束されている。それはつまり、将来への責任がすでに発生していることを意味する。ボクは誰にも負けられない身分にあるんだ」
 ぼくはかぶりを振った。いちばん話が噛み合わないタイプの相手だ。
「きみと競うことに興味ありませんね。きみが勉強するのは、現在と将来の名誉のためなんですね? ぼくは違う。ぼくはただ、知りたいことや学びたいことがあるから勉強するんです。成績なんて、その副産物に過ぎません」
 ぼくは祥之助に背を向けて、歩き出した。瑠偉が隣に並んだ。
 祥之助が何かをわめく。声が裏返る。あのざらざらした低い声ではない。さっきのは何だったのか。
 足音が走り寄ってきた。攻撃的な手がこちらへと伸ばされる気配。ぼくは振り返りざま、ローラースケートが入ったスポーツバッグを叩き付けた。
「すみませんね、手加減できなくて。背後に立たれるの、苦手なんですよ」
 祥之助のボディガードが右手を抱えて呻いた。祥之助は、ボディガードには目もくれず、ぼくに指を突き付けた。
【玄獣珠の預かり手よ、汝に話がある】
 ざらざらした低い声。音ではない、意識に直接突き込まれる思念の声。
 ぼくの顔色が変わったせいだろう、祥之助がニヤリとした。
「放課後、午後七時に正門前で待っていろ。怖がらなくていい。話し合いだ。食事くらい出してやる」
 瑠偉がぼくを見た。喉が干上がる感触がある。
 玄獣珠のことを知られている。不気味で不快だ。祥之助も宝珠の預かり手なのか? でも、四獣珠ではない。だったら、何者?
 ぼくは口元に薄い笑みをこしらえた。あせりも不快も、悟られたくはない。
「お断りします」
「何だと?」
「放課後には先約がありますので」
 祥之助が鼻にしわを寄せて、にらみながら笑うような、鼻の上から見下す表情をした。
「おまえを招いているのは、ボクではない。彼はボクのように温厚ではないよ? 怖い目に遭いたいのか?」
「いえ、どう考えても、先約をスルーするほうが怖い目に遭うんですよね」
 今日の十九時は、玉宮駅前のストリートライヴだ。さよ子さんとの約束をすっぽかしたら、怖いというか、ひたすら面倒くさい目に遭う。
 祥之助について何もわからない状態で、一人で誘いに乗るのは愚策だ。総統に話すほうがいい。朱獣珠の理仁《りひと》くんにも連絡を取りたい。
 ぼくが再び背を向けると、今度は、祥之助は追ってこなかった。