事情が事情だったから、わたしたちは式を挙げていない。
 わたしが大学に上がってすぐのころ、わたしの妊娠がわかった。というよりも、それはわたしの作戦どおりだった。
 高校時代を通してずっと、わたしは母とケンカしてばかりだった。母が煥さんのことを認めてくれなかったんだ。
 煥さんは何を言われても我慢していたけれど、わたしは堪忍袋の緒が切れてしまった。そういうわけで、既成事実を作ってしまった。
 三年前の自分は若かったな、と思う。母を出し抜くために、煥さんまで出し抜いて、わざと避妊に失敗して妊娠したんだから。
 真っ青になった煥さんの顔、忘れられない。
「鈴蘭はこれ以上、親を傷付けるなよ。何でそう意地張ってんだ? 家族のこと、大事に思ってんだろ? でなきゃ、子どもを作ろうって発想にはならねぇはずだ。オレは親がいねぇから、いきなり自分が親になるなんて怖い。でも、おまえはそれを望むんだな?」
 不良呼ばわりの煥さんは、本当はわたしよりずっとまじめだった。「既成事実があれば、母も認めざるをえない」なんていう浅はかなレベルじゃなくて、子どもを作ることは家族を作ることだって、しっかり考えてくれていた。
 当時十九歳の煥さんには、すでに収入があった。スタント俳優として売れ始めていたんだ。煥さんは、婚姻届を迷いもなく書いてくれた。
 わたしは休学して出産、子育て。今年度から復学して、教育学を勉強中だ。師央は、わたしのわがままから生まれた命なのに、素直な子に育ってくれている。
 リスがふさふさの尻尾を揺らして逃げていった。師央は木を見上げて、小さな両手を振った。それから、こっちへ駆け戻ってくる。
 煥さんが腰をかがめて師央を迎えて、軽々と抱え上げる。金色の目が、まっすぐにわたしを見た。
「鈴蘭」
 煥さんは真剣な表情だった。わたしはドキドキしてしまう。今でも、わたしは煥さんに恋をしている。
「何、煥さん?」
「順番だと思ってたんだ。オレより先に、兄貴に式を挙げてほしくて。だから、待たせたな」
「どういうこと?」
「鈴蘭に告白されたとき、オレは格好がつかなくて。その後も全部だ。いろいろ全部、鈴蘭のほうからで、ちゃんとしたプロポーズも結局してない。オレはこういう人間だから、仕方ないんだが」
 こういう人間って言い方、相変わらずなんだから。
 夫になって、父親になって、仕事もしている。でも、煥さんが心のままに書く唄は今でも、少年っぽくひねくれている。
「わたしは不満なんてないよ」
「本当か?」
「うん、本当」
 少しだけ、嘘。ステキな結婚式を見た後だから。神聖な教会や純白の衣装には憧れる。色とりどりの花と祝福がうらやましかった。
「不満はない、か。じゃあ、オレの身勝手に付き合ってくれ」
「え?」
 煥さんは師央を下ろした。わたしの前にひざまずいて、右手を差し出す。
「ウェディングドレスを着てもらいたい。鈴蘭、どうか、オレのために」
 金色の真剣なまなざしが、わたしの心を射抜く。何度目だかわからない。わたしの心は、何度も何度も繰り返し、そのまなざしに射抜かれている。
 キョトンとした師央が、「あ、わかった!」と言うように、パッと笑顔になった。師央は煥さんの隣に立って、わたしへと手を差し出した。
 わたしの返事を待つ、大きな手と小さな手。わたしは笑ったつもりなのに、両目から涙があふれてしまう。
 煥さんの声が、歌うようにわたしを呼ぶ。
「返事をしてくれねぇか、オレの花嫁さん?」
 初めて聴いたときより、落ち着いた声。透き通る響きは変わらない。硬く尖っているのに、しなやかで優しい。その不思議な声に、わたしはいつも恋している。
 あどけない声で、師央が真似をした。
「はなよめさん!」
 幸せがあふれる。胸がいっぱいになって、言葉が出なくて、わたしはただうなずいて、二人の手を取った。
 煥さんがそっと微笑んだ。その甘い形の唇で、わたしの手の甲にキスをする。
「ふられなくてよかった」
 冗談みたいな言葉だけれど、たぶん本気。この人はいつだって、わたしの恋に対して鈍感だから。
 突然。
 カシャカシャ、と重なり合って響くシャッター音。びっくりして、音のほうを見ると、みんながいた。
 文徳先輩と亜美先輩、長江先輩、さよ子、海牙さん、寧々ちゃんと尾張兄弟、牛富先輩、雄先輩、その彼女さんたち。
 手に手にカメラやスマホを持ったみんなの、ニヤニヤ笑いと冷やかしと祝福と歓声。師央がおもしろそうに目を丸くした。
 煥さんがパッと立ち上がった。赤くなりやすい顔が、やっぱり赤い。照れて怒るかな、と思ったんだけれど、わたしの耳に届いたのは意外な一言。
「邪魔が入らなかったことにするぞ」
「煥さん?」
「続きだ」
 煥さんはわたしをギュッと抱き寄せて、わたしの唇にキスをした。

【了】

BGM:BUMP OF CHICKEN「firefly」