小夜子がポツリとつぶやいた。
「煥《あきら》さんの体、温かい……」
 戸惑う小夜子の黒い目が伏せられる。煥先輩がその耳元にささやく。
「体があって、生きてるんだ。温かくて当然だろ。あんただって同じだ」
 小夜子は少し唇を開いた。声は発せられない。ああ、と息をつく。
 沈黙が落ちた。
 チャンスだと、頭の隅ではわかっていた。煥先輩が小夜子を抑えている。今のうちに小夜子を倒せばいい。
 でも、わたしは体が動かない。長江先輩も海牙さんも、煥先輩と小夜子を見守ることしかできない。
 煥先輩が静かに尋ねた。
「どうしてオレなんだ?」
 心底、不思議そうな響きだった。煥先輩は、いつもだ。自分に向けられる好意を信じようとしない。
 小夜子が目を伏せたまま答えた。
「最初に声を聞きました。歌う声を。力強くてキレイな声。それだけじゃなくて、迷ったり、尖ったり、揺れたりする。生きていることそのものみたいな声だと思いました。生きても死んでもいないわたしには、驚きでした」
 メールにも書きました、と小夜子は付け加えた。伝えたはずなのに、伝わっていない。そのもどかしさは、わかる。
「煥さんの声を聞いて姿を見て、恋に落ちたと気付いたときには、もう、わたしの願いは動き出していて。未来をのぞき見ました。想いは、実を結んでいませんでした。こんなはずないと思って、悲しくて苦しくて、だから強く願いました」
 小夜子が言葉を切る。
 幸せがあふれるはずの、未来のあの日。煥先輩の隣にいたのは小夜子ではなくて、小夜子は絶望して、宝珠に願った。あの日の幸せ全部を代償にして。
 間違っていると断罪する資格は、わたしにはない。わたしは亜美先輩を刺したことがある。小夜子の恋を阻もうとしたことがある。
 小夜子と同じ絶望を目にしたら、わたしも同じ願いをいだくかもしれない。それがたとえ禁忌だとしても。因果の天秤を大きく狂わせる願いだとしても。
 小夜子が、震える声で告げた。
「煥さんが好きです。どうしようもないくらい好きです」
 わたしは泣きたくなった。怖くなった。わたしは煥先輩に何も告げていない。でも、小夜子は。
 煥先輩はかすかに、かぶりを振った。銀色が揺れた。
「あんたはオレに何を望むんだ?」
 小夜子はキラキラする目を上げて、夜空を仰いだ。
「煥さんを手に入れたい。声も、体も、命も、心も、全部。煥さんの全部がほしい」
 迷いのない言葉だった。小夜子が手にするツルギが月光に輝く。
 煥先輩が吐息のように言った。
「できねぇよ」
「イヤです」
「オレは、オレのモノだ」
 小夜子が唇を噛んだ。悔しそうに、泣き出しそうに、顔を歪めた。
「煥さんがほしい。それ以外、何もいらない」
「渡してやるわけにはいかねぇな。この醜《みにく》くて黒くて重たいモノ、こんなにどうしようもねぇモノを、誰かに持たせるなんて、できねぇよ」
「え?」
「キレイな何かだと勘違いしてんだろ? オレは、そんなんじゃない」
「勘違いなんかじゃないです! 煥さんは、わたしにとっていちばんキレイで、いちばん価値があって、いちばん大切で、何よりも大切で、いちばん……」
 小夜子が息を呑んだ。煥先輩がささやくように歌っている。
  眠れないまま明けた朝
  空の端の夜の尻尾を
  つかんで引き戻したい位
  闇に馴染んだ目が痛い
 小夜子が、呼吸すら忘れたような、歌声に全部を奪われたような顔をしている。
 ずるい。煥先輩はずるい。
 何も考えていないんだと思う。戦略的な意図があるんじゃなくて、ただ小夜子に聴かせたいだけ。自分はどうしようもねぇモノなんだ、って。
  焦ったり妬んだり僻んだり怒ったり
  醜い感情程 それはもう 鮮やかに
  僕の中に息づいて 僕の形してるから
 その声が、その歌が、その言葉が、醜いはずのあなたに、小夜子の心を惹き付ける。わたしの心を惹き付ける。
 悩みながら書いた歌だと聞いた。悩みを晴らしたのは、ブルームーン。そのメッセージを贈った小夜子に、煥先輩は語りかけるように歌った。
  青い月よ 消えないで
  この胸の叫びは飼い慣らせないから
 小夜子の手からツルギが落ちた。ガラン、と音をたててツルギが転がった。小夜子は目を閉じてうなだれた。
 歌が続く。痛みをこらえて震える声で、優しいといえるほどに慎重な声で、煥先輩は歌い続けている。
 みんな、ただ聴いていた。
 戦いと呼ぶにはあまりにも穏やかで、だけど、予感がある。歌が尽きるときに悲しみが訪れる、そんな予感。