放課後、わたしは帰宅部だけれど、すぐには帰宅しない。最終下校時刻ギリギリまで図書室で勉強する。
 中学時代にずっと図書委員だったわたしは、図書室という場所が好きだ。本の匂いに包まれていると、気持ちが落ち着く。
 勉強スペースを使うのは、受験を控えた三年生が多いみたい。赤本とにらめっこする先輩たちにまぎれて、一年生のわたしは今日も、初歩的な因数分解に四苦八苦している。
 わたしの父は大学の教授で、わたしの中学時代の家庭教師は父の教え子だった。でも、この春に卒業してしまった。
 新しい家庭教師は探さなかった。自力で勉強することに決めたから。人から教わるとわかりやすいけれど、詰め込まれるみたいでもあって、息苦しくなってしまう。
 とはいえ、自力で頑張ると父の前で宣言したものの、図書室での自主学習はやっぱり大変だ。あっという間に時間が過ぎてしまって、あせりが募る。
 文徳先輩がフラッと図書室に来て、わたしに勉強を教えてくれたりしないかな? なんていう淡い望みは、今まで一度も叶ったことがないわけで。
 校庭から離れた場所にある図書室は静かだ。スポーツ系の部活の声は聞こえない。音楽室からも遠い。かすかにブラスバンドの音が聞こえる日もあるけれど。
 その静かな図書室に、校内放送が流れる。
「まもなく最終下校時刻になります」
 十九時に校舎の明かりが消される。今は十八時四十分を回ったところ。やっぱり今日も、予定していたよりも予習に手間取っている。家でも頑張らなきゃ。
 わたしは荷物をまとめて図書室を出た。窓の外は薄暗い。晴れた空に、満月に近い月が見える。
「キレイな月。願いを叶えてくれてありがとう。文徳先輩と会って話せたよ」
 月に願いを掛けるのは、子どものころからの習慣だ。流れ星より、月なの。
 ひとけのない廊下を歩き出す。図書室は校舎の隅にある。普段の授業では出入りしない棟だから、最初は迷ってしまった。
 玄関に至るまでにいろんな教室の前を通る。家庭科室、視聴覚室、芸術系コースの特別教室、何かの委員会の居室、教科担当の先生方の居室。
 襄陽学園は大きくて、校舎を歩くたびに新しい発見がある。この時間帯は無人だから、少し不気味だけれど。
 そう。この棟を抜けるまでは無人だと思っていた。
 いきなりだった。
 すぐ目の前のドアが開いた。びっくりして、わたしは足を止める。
 部屋の内側からドアを支える彼は、部屋の中に向かって声をあげた。
「とにかく兄貴は止血してろ。保健室かどこかから人を連れて来る!」
 一度聞いたら忘れられない、その声。クリスタルみたいだと感じた、男の人の声だ。
 ドアから姿を現したのは煥先輩だ。文徳先輩の弟の、銀髪の悪魔さん。
 煥先輩は廊下に飛び出そうとして、ビクッと体をこわばらせた。わたしがいるなんて思っていなかったみたい。
 わたしは煥先輩に詰め寄った。
「文徳先輩、ケガされたんですか?」
 煥先輩が眉をひそめた。
「あんたは?」
「ケガだったら、わたしが治せます!」
「治せる? 兄貴のケガを?」
 わたしは煥先輩の隣をすり抜けて部屋に飛び込んだ。
「失礼します!」
 音楽をやるための部屋だった。ドラムセット、シンセサイザー、スピーカー。スタンドに置かれたエレキギターとエレキベース。音楽室と同じ材質の壁と天井。
 文徳先輩が床に座り込んでいた。左手の指をタオル越しにつかんでいる。タオルは真っ赤に染みていた。
「鈴蘭さん?」
 文徳先輩が目を丸くした。
 初めて見るラフなTシャツ姿にドキッとしてしまいながら、わたしはカバンを投げ出して、文徳先輩に駆け寄った。
 部屋には、文徳先輩のほかに三人いた。男の人が二人、女の人が一人。そこへ、煥先輩がドアを閉めて戻ってくる。
 こんなことするの、まずいかもしれない。でも。だけど。
 わたしは意を決して、迷いを捨てた。
「文徳先輩、傷口を見せてください」
「あ……ああ、けっこうパックリいってるよ」
 文徳先輩はタオルをほどいた。左手の薬指の腹に、真っ赤な直線が走っている。直線から、見る間に血があふれ出した。
「わ……」
 思わず、ひるんでしまう。背筋がザワザワした。
「ギターの弦の太いのが切れちゃって。演奏中だったから慌てたら、ザクッとやってしまった」
 文徳先輩は苦笑いした。その傷のある手に、わたしは、そっと手を伸ばした。
「し、失礼します」
 声が震えてしまった。手も震えている。
 わたしは文徳先輩の左手に触れた。大きな手は、少しザラッとしてる。手のひらの厚みや、関節の太さ、爪の大きさ。自分の手とは全然違うから、一つひとつにドキドキしてしまう。
 文徳先輩がわたしを見ている。わたしは顔を上げられない。血があふれ出す傷口に、右手をかざす。呼吸を整える。
 青い光を、胸の中にイメージする。温かくたゆたう水のような、優しく包む月影のような、青くて柔らかで透き通った光。
 光がわたしの手のひらから染み出す。
 文徳先輩が息を呑む。かすかな息遣いすらわかるくらい、わたしは文徳先輩の近くにいる。
 カバンの中で青獣珠が呼応している。預かり手であるわたしがチカラを使うせいだ。
 わたしのチカラは「癒傷《ナース》」。傷の痛みをわたしの中へ移すことで、対象の傷を治すことができる。
 痛みを移すのは、吸い出すイメージだ。息をゆっくりと吐き切って、それから、細く長く吸っていく。
 青い光が傷口に絡み付く。わたしは傷口から痛みを吸い出していく。
 痛い。
 左手の薬指がズキズキする。深い傷。しかも、鋭い刃物の傷じゃない。えぐれた格好の傷だ。覚悟していたよりずっと痛い。
 でも、耐えなきゃ。きちんと痛みを吸い出して、文徳先輩を助けなきゃ。
 わたしは一度、息を吐いた。また、ゆっくりと吸う。
 薬指のズキズキが収まってくる。しゅわしゅわと、傷口が温かい。パックリ開いていたのが、ふさがっていく。
 文徳先輩が吐息交じりに言った。
「傷が、消えた……」
 左手の薬指から痛みが消えた。青い光がひとりでにしぼんだ。傷の治療が完了したんだ。
 状況だけが後に残された。わたしが文徳先輩の左手に触れている。
 後ろから声が降ってきた。
「おい、あんた」
 煥先輩の透明な声は、感情が読みづらい。ただ、硬い響きだった。
 わたしは顔を上げた。文徳先輩が真剣な表情をしていた。
「鈴蘭さん、今のチカラは?」
「あの……」
「きみ、能力者だったのか。預かり手なんだな?」
 確信的な文徳先輩の言葉。わたしは頭が真っ白になった。
 とっさにチカラを使ってしまったけれど、本当は決して誉められたことじゃない。チカラは大っぴらにしてはいけない。青獣珠の存在を隠しておくべきなのと同様に。
 わたしは立ち上がった。視線が集まる。誰の目を見ることもできない。
「このことは……お願いします。秘密に、しておいてください」
 体が震える。わたしはきびすを返した。カバンを拾い上げて、早足でドアに向かう。
 ドアを開ける瞬間、呼び止められた。
「おい、待て」
 文徳先輩じゃなくて、煥先輩だ。
「……失礼しました」
 わたしは部屋から飛び出した。カバンを胸に抱えて、誰もいない廊下を走る。
 やってしまった。
 文徳先輩がケガしていた。見過ごせなかった。だって、わたしならすぐに治してあげられる。
 でも、わたしのチカラは普通じゃない。「特別」ならまだいい。「異常」と思われたかもしれない。
 化け物だよね? 気持ち悪いよね?
 めちゃくちゃに走った。いつの間にか靴箱の前にいる。息が切れて苦しい。
「嫌われたら、どうしよう……」
 わたしはうずくまった。