階段を上り切ると、ドアは開けっ放しで、晴れた夜空が見えた。わたしたちは屋上に出た。満月が明るい。
 小夜子がそこにいた。
 長い黒髪。真っ白な肌。青白く透けるようなワンピース。月を見上げていた小夜子が、こちらを向いた。
「月がキレイですね、煥さん」
 煥先輩はブレザーの内ポケットに手を入れて、ツルギの柄をつかんで出した。小夜子に近付いていく。かすかな夜風に銀髪がそよぐ。
「確認しときたい。あんたは、月という宝珠の預かり手で、自分が預かる宝珠に願いを掛けた。それが禁忌だとわかっててやったのか?」
 小夜子は笑顔でうなずいた。
「はい、そのとおりです。わたしは月聖珠の預かり手で、『不死《エターニティ》』のチカラの持ち主です。禁忌のことは、もちろんわかっています」
 煥先輩のツルギに純白の光が集う。白獣珠が短剣の姿になる。煥先輩は足を止めて、小夜子にツルギを示してみせた。
「禁忌の違反者がどうなるかも、わかってるのか?」
 煥先輩と小夜子の間には、まだ距離がある。小夜子が足を踏み出した。一歩一歩、ゆっくりと距離を詰めていく。
「四獣珠の預かり手が違反者を排除する。そういう取り決めがあるんですよね? 煥さんが白虎だなんて、皮肉です。わたしは煥さんと争いたくない」
 煥先輩と小夜子の距離が縮まっていく。
 あと三歩。
 煥先輩が無言で短剣を振りかぶる。小夜子が足を進める。
 二人の距離は、あと二歩。
 あと一歩。
 ヒュッと夜気が鳴る。純白がひらめく。
 煥先輩が逆手に握った短剣が、ピタリと止まった。切っ先は、小夜子の首筋に触れそうで触れない。
 二人の距離は、抱き合わないのが不自然なくらいの近さだった。
「刺さないんですか、煥さん?」
「刺したら、あんたは死ぬのか?」
「少なくとも、この肉体は消滅します」
「精神のほうは死なねえって意味か」
 小夜子は、刃を突き付けられているのに、甘やかに微笑んでいる。
「不死《エターニティ》がわたしのチカラ。月聖珠が存在する限り、わたしは死ねません」
 煥先輩が小夜子の言葉尻をとらえた。
「死ねない? 死なない、じゃねぇんだな。肉体化した意味は、そういうことか。メールに書いてた『生きて死にたい』って言葉は、あんたの本心なんだな」
「わたし、嘘はつきません。煥さんが受け入れてくれるなら、それだけでいい。永遠なんていりません。肉体を持つことで老いや死を体験することになっても、禁忌を犯した罪を背負うことになっても、わたしは煥さんへの恋だけがあれば、ほかに何もいらないんです」
 煥先輩と小夜子が、見つめ合ったまま黙り込む。
 胸がザワザワした。気付いたら、叫んでいた。
「煥先輩、聞いちゃダメです! 小夜子の言ってることは脅しと同じです。精神の状態では不死《エターニティ》だなんて、それじゃあ、小夜子は何度でも繰り返すでしょう? 煥先輩が小夜子の条件を呑むまで、何度でも!」
 小夜子の左手が動いた。煥先輩の右腕の下をかいくぐるように、その指先がわたしに向けられた。
「青龍、黙っていて。殺したつもりだったのに、間違えた。ツルギで刺しても無意味だったわね。別の方法を使わないと」
 小夜子の指先から光が走る。何かが来る、と感じた。反射的に目を閉じた。
 首をつかまれた。真綿のような何かによって、ふわふわと、でも確かにじわじわと、つかまれた首に力が加えられる。
「な、何、これ……」
 わたしは目を開いて、見た。金色の靄《もや》のような輝きのかたまりが、わたしの首を絞めている。
「やめろ」
 低く鋭い声が、むち打つように響いた。煥先輩が小夜子の手首をつかんだ。首のまわりの圧迫が消えた。
 小夜子は煥先輩を見上げた。
「四獣珠はわたしを見逃さず、わたしを滅ぼしたいんですね。煥さんも、わたしと対立してしまうの?」
「白獣珠がオレに戦えと言ってる」
「石に命じられるから戦うんですか? たったそれだけの理由で?」
「オレは、自分のチカラの意味も、白獣珠を預かる意味も、人と違う在り方に生まれついた意味も知らない。わからないまま生きるしかないと思ってた。でも今、白獣珠がオレに役割を示してる。それを果たせば、オレが生まれた意味もわかるかもしれねえ。だから戦う」
「チカラなんてあってもなくても、煥さんは、煥さんです。世界でただ一人の、わたしの大事な人。あなたには、戦いよりも歌が似合います。わたしはあなたと戦いたくない」
 煥先輩が小夜子の手首を離した。半歩、下がる。ツルギを振るう間合いを取ろうとして。
 半歩、小夜子が煥先輩に迫った。小夜子の手が煥先輩の胸に触れて、肩に触れる。
 それは一瞬の出来事で、止める間もなかった。
 小夜子が煥先輩の唇を奪った。煥先輩が目を見開く。
 イヤだ……!
 驚きが、煥先輩を隙だらけにした。小夜子の指先から金色の靄があふれ出す。靄が煥先輩の両手首と両足首に絡み付く。
 小夜子が唇を離した。煥先輩はまだ、愕然と目を見張っている。
「な、何を……」
「煥さんの体を傷付けずに、自由を封じたくて。手を出さないでくださいね。煥さんにケガをさせたくないんです」
 煥先輩の体がふわりと宙に浮いた。両手両足の金色の靄は、形を持たない拘束具だ。まるでそこに目に見えない十字架があるかのように、煥先輩が宙に磔《はりつけ》にされる。
「くッ……おい、放せ!」
 煥先輩が無理やり体を動かした。まったく動けないわけじゃない。力任せに拘束具を引きずって、右腕を振り下ろそうとする。その手に白獣珠のツルギがある。
 小夜子が煥先輩の右腕に触れて、甘い声で告げた。
「動かないでください。動いたら、痛いですよ。じっとしていれば、痛くも怖くもありませんから」
「ふざけんな。オレは……」
 動きかける唇を、小夜子の唇が封じた。
「やめてっ!」
 わたしは叫んだ。ポーチから青獣珠が飛び出す。手に吸い付くようにグリップが馴染む。青い刃がきらめいた。
 小夜子がわたしを振り返った。微笑みが消えた。
「青龍、あなたの指図は受けない。あら、朱雀も玄武もわたしの邪魔をするの?」
 長江先輩が朱いツルギを、海牙さんが黒いツルギを、それぞれ構えた。
「願いのチカラを乱用する。きみの恋路は応援できないね」
「煥くんの戦力を封じた上で、この展開。ちょっと計算高すぎませんか?」
 そう、と小夜子がつぶやいた。小夜子の右手が月の光を差し招く。その手に、長大なツルギが握られた。