わたしは自転車で、車の通りがなくなった静かな住宅地を駆け抜ける。
普段は自転車に乗らない。坂道の下りはいいけれど、上りがつらいから。
この道を再び上ることはないかもしれない。頭に浮かびかけた恐怖を追い払って、前だけを向いて自転車をこぐ。
玉宮駅前で長江先輩と落ち合った。ちょうど電車で着いたところだった。
嫦娥公園のほうへ歩き出したとき、トラックの荷台から海牙さんが飛び降りてきた。
「海ちゃん、無賃乗車」
「公共交通機関じゃないからセーフでしょう?」
そのとき、ケータイが鳴った。長江先輩と海牙さんのスマホも、同時に。
「煥くんからの返信ですね」
いちばん素早かった海牙さんが報告する。わたしは慌ててポーチからケータイを出した。
〈今メールに気付いた。十分くらいで着ける〉
わたしたちは先に嫦娥公園に入ることにした。公園の出入口に自転車を停める。
「やあ、こんばんは」
当然のように、ベンチには平井さんがいた。挨拶をして、それきり沈黙が落ちかけて、気を遣うように長江先輩が話題を振った。
「鈴蘭ちゃんがメールに書いてたファイルって、海ちゃんの『秘録』勉強ファイルのこと?」
「はい。少し読ませていただきました。すごいですね、海牙さん。理系なのに、漢文も読めるなんて」
海牙さんはウェーブした髪を掻き上げた。得意げで嬉しそうな表情を隠し切れていない。
「あんなに勉強したのは初めてですよ。漢文が読めるようになると、古文もできるようになりました。古い文体を読む勘が身に付いたんだと思います。古典の読みづらさをクリアできるようになったら、いつの間にか現代文の理解速度も上がりました」
「そうなんですね。すごいです」
「唯一の弱点だった国語も、もう怖くありませんね。志望校の旧帝大は、オーバーキルでA判定です」
「うらやましいです。わたし、入学して一週間でもう、進学科の授業のペースに置いていかれかけてます。要領悪くて。数学、どんな勉強の仕方をすればいいんでしょう?」
全国模試ランカーの海牙さんが答えるより先に、長江先輩が茶々を入れた。
「海ちゃんに理系教科の相談しても無駄だよ。この人、天才以上のチカラの持ち主じゃん?計算なんて、呼吸するより簡単にできちゃう」
「そういえばそうですね」
海牙さんが腕組みした。
「そんな言い方は心外ですよ。ぼくは教えるのも得意です。教師という職業にも関心がありますから」
「え、マジ? んじゃ、将来、襄陽に来ない? おれ、襄陽乗っ取るからさ、物理の先生として海ちゃん雇いたい」
長江先輩が目指すのは、襄陽学園の理事長の椅子だ。海牙さんは物理か数学の先生になるかもしれない。わたしはスクールカウンセラーになりたい。三人とも、学校に絡む仕事をしたいんだ。
学校は、わたしの世界のほとんどすべてだ。わたしを形づくる要素の、いちばん大きい部分。わたしだけじゃなくて、きっと、小学生から高校生までのほとんどみんな、学校に通っている多くの誰もが同じ。
学校って、大切な場所だと思う。狭くて窮屈かもしれないけど、かけがえのない時空間であるはずだから。
「ステキな場所にしてあげたいよね~」
「リヒちゃんならできるでしょう」
「わたしもそう思います」
長江先輩も海牙さんもわたしも、よく似た何かを感じながら、将来を夢見ている。
平井さんが、話をまとめるように言った。
「きみたちのその将来のために、そろそろ真実を追究するときが来たようだ」
平井さんは耳を澄ませる仕草をした。それを合図にしたように、夜風がバイクの音を連れて来る。
「煥先輩でしょうか?」
「あっきーだろうね。大型バイクの音だ。瑪都流《バァトル》のバイクってさ~、エンジン音、ナチュラルなままなんだよね。暴走族なんて呼ばれるけど、交通ルール守るし。あいつらはね、ただ走るのが好きなだけなの」
公園の出入口付近に光が躍った。ヘッドライトだと気付いたとき、黒い疾風が公園に乗り入れた。重さをものともせず、巨体が華麗に停止する。エンジン音とライトが消えた。
煥先輩がバイクから降りてヘルメットを外した。頭を振ると、銀髪が跳ねた。
わたしは煥先輩に駆け寄ろうとした。でも、体が固まる。
「何で……」
普段は自転車に乗らない。坂道の下りはいいけれど、上りがつらいから。
この道を再び上ることはないかもしれない。頭に浮かびかけた恐怖を追い払って、前だけを向いて自転車をこぐ。
玉宮駅前で長江先輩と落ち合った。ちょうど電車で着いたところだった。
嫦娥公園のほうへ歩き出したとき、トラックの荷台から海牙さんが飛び降りてきた。
「海ちゃん、無賃乗車」
「公共交通機関じゃないからセーフでしょう?」
そのとき、ケータイが鳴った。長江先輩と海牙さんのスマホも、同時に。
「煥くんからの返信ですね」
いちばん素早かった海牙さんが報告する。わたしは慌ててポーチからケータイを出した。
〈今メールに気付いた。十分くらいで着ける〉
わたしたちは先に嫦娥公園に入ることにした。公園の出入口に自転車を停める。
「やあ、こんばんは」
当然のように、ベンチには平井さんがいた。挨拶をして、それきり沈黙が落ちかけて、気を遣うように長江先輩が話題を振った。
「鈴蘭ちゃんがメールに書いてたファイルって、海ちゃんの『秘録』勉強ファイルのこと?」
「はい。少し読ませていただきました。すごいですね、海牙さん。理系なのに、漢文も読めるなんて」
海牙さんはウェーブした髪を掻き上げた。得意げで嬉しそうな表情を隠し切れていない。
「あんなに勉強したのは初めてですよ。漢文が読めるようになると、古文もできるようになりました。古い文体を読む勘が身に付いたんだと思います。古典の読みづらさをクリアできるようになったら、いつの間にか現代文の理解速度も上がりました」
「そうなんですね。すごいです」
「唯一の弱点だった国語も、もう怖くありませんね。志望校の旧帝大は、オーバーキルでA判定です」
「うらやましいです。わたし、入学して一週間でもう、進学科の授業のペースに置いていかれかけてます。要領悪くて。数学、どんな勉強の仕方をすればいいんでしょう?」
全国模試ランカーの海牙さんが答えるより先に、長江先輩が茶々を入れた。
「海ちゃんに理系教科の相談しても無駄だよ。この人、天才以上のチカラの持ち主じゃん?計算なんて、呼吸するより簡単にできちゃう」
「そういえばそうですね」
海牙さんが腕組みした。
「そんな言い方は心外ですよ。ぼくは教えるのも得意です。教師という職業にも関心がありますから」
「え、マジ? んじゃ、将来、襄陽に来ない? おれ、襄陽乗っ取るからさ、物理の先生として海ちゃん雇いたい」
長江先輩が目指すのは、襄陽学園の理事長の椅子だ。海牙さんは物理か数学の先生になるかもしれない。わたしはスクールカウンセラーになりたい。三人とも、学校に絡む仕事をしたいんだ。
学校は、わたしの世界のほとんどすべてだ。わたしを形づくる要素の、いちばん大きい部分。わたしだけじゃなくて、きっと、小学生から高校生までのほとんどみんな、学校に通っている多くの誰もが同じ。
学校って、大切な場所だと思う。狭くて窮屈かもしれないけど、かけがえのない時空間であるはずだから。
「ステキな場所にしてあげたいよね~」
「リヒちゃんならできるでしょう」
「わたしもそう思います」
長江先輩も海牙さんもわたしも、よく似た何かを感じながら、将来を夢見ている。
平井さんが、話をまとめるように言った。
「きみたちのその将来のために、そろそろ真実を追究するときが来たようだ」
平井さんは耳を澄ませる仕草をした。それを合図にしたように、夜風がバイクの音を連れて来る。
「煥先輩でしょうか?」
「あっきーだろうね。大型バイクの音だ。瑪都流《バァトル》のバイクってさ~、エンジン音、ナチュラルなままなんだよね。暴走族なんて呼ばれるけど、交通ルール守るし。あいつらはね、ただ走るのが好きなだけなの」
公園の出入口付近に光が躍った。ヘッドライトだと気付いたとき、黒い疾風が公園に乗り入れた。重さをものともせず、巨体が華麗に停止する。エンジン音とライトが消えた。
煥先輩がバイクから降りてヘルメットを外した。頭を振ると、銀髪が跳ねた。
わたしは煥先輩に駆け寄ろうとした。でも、体が固まる。
「何で……」