制服から部屋着に着替えて、食欲がないままごはんを食べて、部屋に戻った。
 課題やらなきゃ。予習やらなきゃ。お風呂に入らなきゃ。やることリストは頭の中にあるけれど、やる気が起きない。
 平井さんに渡されたファイルを開く。海牙さんが必死で読んだ『秘録』。癖のある文字をたどってみる。
 序文によると、『秘録』は江戸時代に編集されたらしい。編者は、当時の阿里家の預かり手。阿里家に収集された宝珠関係の記録をまとめたもので、全部で五冊印刷されて、四獣珠の家系と平井家に一冊ずつ配られた。
 そのときも今回と同じように、一つの危機が起こって、四獣珠の預かり手は協力してそれを乗り越えた。その記録を兼ねて『秘録』は編集されたそうだ。
 
[愚願令此書伝世長久然乃後人不詐守珠之道耳
愚《ぐ》、願ふらく、此《こ》の書をして伝世すること長久たらしめんことを。然《しか》らば乃《すなは》ち、後人、守珠の道を詐《いつは》らざるのみ]

 ノートの余白にはビッシリとメモが書き込まれている。

・愚=一人称。筆者自身のこと
・令=使役。「□□をして○○せしむ/△△たらしむ」
・願うらく~○○せんことを
・然乃=しからばすなわち
・之=これ/の ←注意!
・詐=いつわる。まちがうの意。
・耳=のみ。肯定。「なり」でも可。

[筆者である私は願います。この本を末永く子孫たちに伝えてほしい。そうすれば、子孫たちは宝珠を預かる道を外れません]

 海牙さんのノートには、『秘録』の目次ごとに付箋でタグが付けられていた。ノートのまとめ方が几帳面だから、とても見やすい。
 まずは『始源』。最初に大地聖珠が生まれて、次に陰陽の二極珠が生まれて、そして四聖獣の四獣珠が生まれた。四獣珠はランクの高い宝珠だ。
 次に『属性』。四獣珠は四聖獣のチカラを宿している。青龍、朱雀、白虎、玄武。そして、それぞれ方位と季節、元素を司っている。
 青龍は東と春、元素は木/植物。
 朱雀は南と夏、元素は火/炎熱。
 白虎は西と秋、元素は金/鉱物。
 玄武は北と冬、元素は水/寒冷。
 そして『禁忌』。宝珠の預かり手は互いに交流することを避けなければならない。己が預かる宝珠に願いを掛けてはならない。万一、禁忌の願いが発動したら、預かり手は違反者を排除しなくてはならない。
 重要だと海牙さんが判断した文章は、漢文を書き下すだけではなく、現代語訳も付けられていた。おかげで、わたしは苦労なく読み進めることができる。
 ふと『一珠』というタグが目に付いた。母数が一の宝珠について書かれている。つまり、大地聖珠のこと。ついでのように、月のことも。
「月も宝珠なんだ」
 それから『大樹』のタグがあった。運命について記された項目だ。
 運命は、いくつもの可能性を持つもの。多数に枝分かれした大樹のようなもの。わたしたちが生きるこの世界は大樹の一枝で、別の一枝には、よく似た別のわたしがいる。
 一枝が病めば、別の一枝にも影響を及ぼし得る。場合によっては、大樹全体を滅びに導くかもしれない。
 でも、そうだとしても、わたしには預かり知れない。
 この病んだ一枝の寿命はどれくらいだろう? 平井さんは断言しなかった。遠い未来かもしれないと言った。
 だったら、一枝の滅亡がわたしの生涯のうちに起こらないなら、別にどうでもよくない?
「イヤだ」
 ポツリと、つぶやいてみた。
 くすぶっているだけで、みじめで、情けなくて、ずるくて。逃げ道ばかりを探す自分が、イヤだ。
 海牙さんは強い。生まれ持った能力のために苦しみながら、そんな自分にちゃんと向き合っている。
 長江先輩は強い。預かるべきものを忌み嫌いながら、いちばん信頼したいはずの人と戦っている。
「煥先輩……」
 歌を聴いて、その人となりを知った。自分の弱さや孤独や醜《みにく》さや不安を直視することは、とても痛い。でも、目を背けちゃいけない。見たもののありのままを歌う煥先輩は強い。
 まだ全部を覚えてはいないけれど、サビだけは歌えるようになった。
  青い月よ 消えないで
  この胸の叫びは飼い慣らせないから
 煥先輩が歌ってくれるなら、歌声を聴きながらだったら、わたしは覚悟を決められるんじゃないか。
 この一枝は、数年後の未来から巻き戻った。文徳先輩と亜美先輩の結婚式の日、願いの代償として、みんな殺された。
【何度やり直してでも、わたしはあきらめない。この恋が実る真実の未来へとたどり着くために、何度だって時を巻き戻す】
 許せないと思った。「わたし」の恋のために煥先輩が死ぬなんて、わたしは許せない。
「煥先輩は未来のある人だから。わたしは、煥先輩の未来の全部を応援したい。好きな人を、死なせたくない」
 わたしはケータイを手に取った。みんなに会いたい。会って話したい。教えてもらいたい。勇気をもらいたい。
〈鈴蘭です。今から嫦娥公園に集まれませんか? お話ししたいんです。
 追伸:海牙さん、ファイルありがとうございます〉
 煥先輩と長江先輩と海牙さん、三人宛てにメールを送る。長江先輩と海牙さんからはすぐに返信が来た。
〈りょーかい! すぐ向かうね〉
〈ぼくも行けます。夜道は気を付けて〉
 煥先輩からの返信がない。いちばん応えてほしいのに。
 わたしは制服に着替えた。私服でもよかったかなって、着替えた後で気付いた。ポーチに青獣珠とケータイと財布を入れて、忍び足で玄関から靴を取ってきて、メイドさんに見付からないように勝手口から外に出る。
 門衛さんがわたしの姿に目を丸くした。
「鈴蘭お嬢さま? こんな時間に一体どちらへ?」
「お願い、見逃して! 今回だけだから!」
「……白虎の彼ですか?」
 門衛さんは心配そうな表情をしながら、同時に、ワクワクしているようにも見える。ここはもう、一世一代の迫真の演技で押し通すしかない。
「わたし、どうしてもあの人に会いたいの……!」