平井さんはどこからともなく、一冊の分厚いファイルを取り出した。わたしは平井さんからファイルを受け取って開いた。
 漢字が目に飛び込んできた。漢文だ。といっても、白文じゃなくて、漢文を読むための返り点が打たれている。平井さんが説明してくれた。
「これは海牙くんの『四獣聖珠秘録』勉強ノートだよ。影印本をコピーして、そこに返り点を打って、書き下した文章をノートに取っている」
 返り点付きのコピーをめくる。ルーズリーフに、漢字かな交じりの文章が書かれている。
[吾が父、集むる所の古籍に曰《い》はく、宝珠、先《ま》づ大地有り。…………]
 筆圧が強くて細身で角張った文字だった。美しい字体ではないけれど、癖が統一的で、読みやすい。
「海牙さんって、文系教科もできるんだ」
「理系教科に比べると、苦労していたがね。全部読むまでに、一年近くかかったかな」
「えっ、一年?」
「返り点なしの漢文を、きみは読めるかな?」
「無理です」
「高校生の学習の範囲では、読めないのが当然だ。海牙くんも同じだよ。最初の一行を読めるまでに、三日かかっていた。必死でやって、だんだん読めるようになった」
 コピーされた本文をよく見ると、返り点の下書きの痕跡がたくさんあった。消しゴムでキレイに消してあるけれど、強い筆圧のくぼみは残っている。
「どうしてこんなに頑張れたの?」
「未処理の情報を、どうにか処理したかったんだ。預かり手である自分とは何者なのかを知るために」
「その答えは『秘録』を読んだらわかるんですか?」
「わかる部分もある。わからない部分もある。読まないよりは、読むほうがいい。特に、四獣珠がツルギに姿を変えた今、登場人物の姿を知っておく必要があるだろうね」
 ノートの文字を目で追ってみる。漢文を書き下しただけの古い文体だから、文章の意味は、すんなりとは頭に入ってこない。
「海牙さんは自分で苦労したのに、わたしは海牙さんのノートを見せてもらう。ずるいですよね、わたし」
「そうかもね。しかし、海牙くんは理仁くんをずるいと言っていたよ。理仁くんは、ほんの一日で『秘録』を読んだから」
「一日で?」
「理仁くんの能力は言語優勢だから、聞くと読むは得意らしいんだ。テレパシーを受信するようなものだよ」
 そういえば、屋上でもその話をしていた。
 目の前の漢文を眺める。こんな凄まじい密度の漢字の連なりからテレパシーを受け取れるなんて。長江先輩のチカラって普通にすごい。
「わたし、読んでみます」
「そうするといい。話したいときには、いつでもおいで。私に連絡する必要はない。私はすべてを感知できるから」
 わたしは改めて、平井さんを見つめた。穏やかな表情をしている。あたりは薄暗いのに、目が焼けそうな錯覚に陥《おちい》る。昼間の太陽を直視するみたい。
「平井さんも預かり手なんですよね? 一体、どんな宝珠を預かってらっしゃるんですか? 四獣珠とは比べ物にならないくらい大きなチカラが存在するなんて、想像できなかったし、信じられないんです」
 わたしは早口で言い切った。失礼を承知していた。恐れ多さに負けて、わたしは顔を伏せる。
 平井さんは柔らかい声で言った。
「空を見上げてごらん。満月だよ。とても明るい。月から見る地球も、きっと美しいだろうね。地球は、青く輝く宝珠だ」
 雷に打たれたように感じた。
「それじゃ、平井さんの宝珠は……」
「この地球上で触れられる最も大きな球体は地球、すなわち『大地聖珠《だいちせいしゅ》』。私はこの星の預かり手だ。おかげで、途方もないチカラを授かっている。顔を上げてごらん?」
 平井さんの言葉は、絶対の命令だった。わたしは命令に服従する。
 そのチカラは『掌握《ルール》』。完全なる支配者が持つ、圧倒的なチカラだ。平井さんの存在は、きっと神に似ている。
【多神教的な立場に立つならば、似ているかな? しかし、私は天地創造などしていないよ。この肉体も老いる。そうした意味では、ただの人間に過ぎない】
 頭の中に響き渡る声は強すぎて、ひれ伏したい衝動に駆られる。
「おっと、ごめんね。怖がらせたいわけではないんだ。私の存在が、きみたちの疑問を解くヒントになる。だから名乗ったのだ」
「疑問を解くヒント?」
 平井さんは微笑んで、お口にチャックのジェスチャーをした。
「すべてを話してあげられればよいのだが、それは私の禁忌に触れるのでね。自分たちの力で、真実に近付いてほしい」
「平井さんにも禁忌があるんですか? 大地聖珠の預かり手なら、地球の支配者で、運命を預かっているともいえる存在でしょう?」
「チカラが大きければ大きいほど、禁忌も制約も大きくなくてはならない。そうでなくては、運命の一枝など、一瞬で簡単に滅んでしまう」
 ポーチの中で、青獣珠がうなずくように呼応した。
 ――チカラは均衡しなければならない――
 願いと代償のバランス。チカラと禁忌のバランス。それらは、釣り合わなくてはならない。青獣珠が言った「因果の天秤の均衡」って、このバランスのことなんだ。
「この病んだ一枝は滅びますか? ツルギが違反者を排除しなければ、ここに存在するすべてが滅んでしまうんですか?」
「何年何月何日に滅ぶ、と予言することはできない。遠い未来のことかもしれない。謎を解いて真実に近付くことが怖いのかい?」
 声が、夜気をひそやかに貫いた。
「謎を解くしかねぇだろ。白獣珠がツルギになって、役割を果たせって言う。チカラの意味を知るチャンスだ。自分が生まれた意味も生きてる意味も、役割を果たせば、少し見えんだろ? だったら、オレはやる」
 煥先輩は言い切った。黒いライダースーツを着ている。小脇に抱えたヘルメットも黒だ。
 平井さんがわたしの背中を優しく押した。
「お迎えが来たようだね。気を付けて帰りなさい」
 わたしは平井さんにお辞儀をした。