無言の帰り道はひどく長かった。
 煥先輩が先頭、その後ろに小夜子、半歩遅れてわたし。小夜子は何度か煥先輩に話しかけた。でも、煥先輩は最低限の返事しかしない。
 無口な人なんだって思い出した。優しくて強い言葉をいくつももらったせいで、煥先輩からおしゃべりを引き出すのが難しいことを、わたしは忘れていた。
 玉宮駅が見えてきた。嫦娥公園はそのすぐそばだ。まもなく小夜子と別れることになる。
 しばらく黙っていた小夜子が少し走って、煥先輩に追い付いた。
「あのっ、煥さん」
 小夜子が煥先輩の肘のあたりに触れようと手を伸ばした瞬間、パシッ、と鋭く短い音がした。小夜子が立ち尽くす。煥先輩がハッと顔を上げた。
「バカ。いきなり触れようとするな。条件反射で、振り払っちまう」
「ご、ごめんなさい」
「いや……すまん。痛かっただろ?」
 小夜子は微笑んで、胸の前で右手を左手に包んだ。
「平気です。驚かせて、すみませんでした。初めて煥さんに触れてもらえましたね。嬉しいです」
 煥先輩は眉をひそめた。
「そんなの、喜ぶなよ。手、出せ」
「え?」
 小夜子が目を見張った。煥先輩が右手を差し出している。
「いきなりじゃなけりゃ、平気だから。手を握るくらいなら」
 広い手のひら。長い指。出っ張った関節の形。正方形に近い爪の形。
 その手がわたしに触れてくれたことがある。抱きしめてくれたこともある。でも、触れていいって、握っていいって、そんなふうに差し出されたことはない。
 悔しさが胸を支配する。
 小夜子のほっそりした右手は、わたしの手とは違う形で、わたしの手よりキレイで大人っぽい。小夜子の手が、煥先輩の手に触れた。手と手がそっと握り合った。
「すごく、嬉しいです」
 小夜子がうっとりとささやいた。
 煥先輩は手をほどいた。両手をブレザーのポケットに入れて、黙って再び歩き出す。顔が赤くなっているかどうか、後ろ姿からは見て取れない。
 嫦娥公園のそばで、小夜子と別れた。小夜子はわたしを見なかった。煥先輩にだけ笑顔を向けて、ペコッと頭を下げる。
「送っていただいて、ありがとうございました! 少しだけでも、お話しできて嬉しかったです。次のライヴも絶対に聴きに行きますね!」
 煥先輩は「ああ」とだけ応えた。
 小夜子が嫦娥公園のほうへ去って行った。わたしは結局、小夜子と一言も話さなかった。
「煥先輩、今日の午後はどこにいたんですか? わたし、お話ししたかったのに」
「相談役は兄貴のほうがよかっただろ?」
 わたしは首を左右に振った。文徳先輩と話をして落ち着いたのは事実。でも、わたしが話したかった相手は違う。
「煥先輩、わたしは……わたし、あの……」
 うまく言葉が出てこない。
 煥先輩は肩越しに親指で嫦娥公園を指し示した。
「公園のベンチに行け。平井がいる。あいつと一緒にいれば問題ない。二十分くらい待ってろ」
「待つって?」
「バイクを取ってくる」
 煥先輩は言うだけ言って、人混みを縫って歩いていった。