しばらくして、雄先輩が来た。亜美先輩と牛富先輩もまもなく合流した。
 小夜子が明るい顔で自己紹介をする。煥先輩のファンという言葉に、みんな楽しそうな表情をした。
 わたしはごまかし笑いを浮かべるだけで、小夜子の積極的なところについて行けない。
 通し練習が始まっても、煥先輩は来なかった。わたしも小夜子も、じっと黙ったままで、歌の入らない演奏を聴き続けた。
 煥先輩の声を、鮮やかに思い出すことができる。
 透き通ったトーンでささやいたフレーズ。ギュッと顔をしかめて張り上げるシャウト。しなやかに伸びる高音。包み込むような低音。
 どんな歌い方をするときも、誰の声とも似ていない。誰の声を加工して整えたって、煥先輩の声には及ばない。
 牛富先輩がドラムセットから立って、パソコンを操作した。ミックスされた雑踏の音源が、スピーカーから流れ出す。『ビターナイトメッセージ』のイントロだ。
 亜美先輩がベースの一音を放つ。完璧なタイミング。雑踏が耳を澄まし始める。
 そのときだった。ドアが開いて、煥先輩が部屋に入ってきた。小夜子が椅子から立った。亜美先輩が演奏を止めた。牛富先輩もパソコンの音を消す。
 文徳先輩が、ホッとした顔を見せた。
「やっと来たか。どこに雲隠れしてた?」
「いつもの場所だよ」
「歌えるのか?」
「一応」
「お客さんが来てるぞ。おまえのファンなんだって」
 煥先輩が小夜子を見る。小夜子は煥先輩に駆け寄った。
「お会いできてよかったです! 今日、来られないかもしれないって聞いてたから」
「約束がある。勝手に帰れねぇんだ」
 煥先輩の視線がわたしをとらえた。約束って、わたしの護衛のこと?
 小夜子は煥先輩を見つめている。煥先輩はわたしからも小夜子からも顔を背けて、文徳先輩に言った。
「兄貴、とりあえず一曲、合わせたい」
 煥先輩はさっさとマイクの準備にかかった。
 わたしは小夜子の手を引いた。
「座って聴いてよう?」
 小夜子はわたしの手を振り払った。部屋の隅の椅子に、黙って腰掛ける。
 前のときとは空気が違う。あのときは楽しかった。笑ったり、からかったり、騒いだり、小学生みたいな瑪都流の姿を目撃した。亜美先輩から、子どものころの煥先輩の話を聞いた。
 煥先輩のマイクの準備が整う。文徳先輩が煥先輩に訊いた。
「いきなりいけるのか?」
「勇者シリーズだったらいける」
「了解、どっちにする?」
「プロローグのほう」
 中学生時代、瑪都流が結成して最初にできた曲が『ブレイヴプロローグ』。いちばんやり込んだ曲だと、文徳先輩が言っていた。
 4カウントも取らず完璧に呼吸を合わせて、いきなり演奏が始まった。
 煥先輩が歌う。がむしゃらな少年の顔をして叫ぶ。曲に入り込んだ表情だ。
 『ブレイヴプロローグ』の演奏を終えて、次は『ビターナイトメッセージ』。さっきの仕切り直しだ。
 効果音付きのイントロから始まって、ベース、シンセ、ギター、そしてドラムの順に、楽器が加わっていく。最後に煥先輩が歌い出す。
 悩み抜いた夜。朝の光におびえる胸。醜《みにく》い自分の姿を、明るみにさらしたくない。
 そんな唄を、美しい煥先輩が歌うなんて。煥先輩の存在はきっと、闇の中でもキラキラするのに。
 「煥」という字の意味を調べた。キッパリと明るく光り輝くとか、ハッキリと照らして明かすとか、そういう意味だった。
 煥先輩、あなたに「煥」という字は、すごくよく似合います。あなたはとてもまぶしいから。
 曲がサビに差し掛かる。
  この胸の泥の奥の底
  その声をあげたのは何だ?
  僕の押し殺した息
  僕が忘れたふりの僕
  僕にようやく聞こえた
  青い……
 いきなり、煥先輩の声が止まった。異変に気付いて、演奏が止まる。
「おい、煥? どうした?」
 煥先輩は呆然と目を見開いていた。口元を、大きな手のひらで覆っている。
 小夜子が立ち上がった。蹴られて倒れそうな椅子を、わたしが支える。誰も何も言わない。固唾を呑んで煥先輩を見つめる。
 やがて、煥先輩は長いまつげを伏せた。
「悪ぃ。歌えねえ」
  青い月よ 消えないで
  この胸の叫びは飼い慣らせないから
 曲の中でもいちばん印象的なフレーズ。「青い月」と歌う響きが美しい箇所だ。
 不意に、わたしは思い出した。煥先輩の呆然とした目を、昼休みにも見た。
 ブルームーンじゃないのか、と煥先輩はつぶやいた。ケータイの連絡先を交換したとき、わたしのアドレスを知ったときのことだ。
 ブルームーン? 青い月?
 歌えない理由とメールアドレスに何か関係があるの?
 そういえば、『ビターナイトメッセージ』のタイトル、仮に付けられていたのも『ディア・ブルームーン』だった。
 それに、もっと前にも一度、煥先輩は月というモチーフに大きな反応を見せたことがある。
 路地での巻き戻しを経験した後の放課後、初めて一緒に帰ることになったときだ。煥先輩はわたしのアミュレットに驚いていた。月のモチーフで、青い石が付いたアミュレットだ。
 どうして煥先輩は青い月にこだわるんだろう? なかなか完成しなかった歌詞の、最後の一ピース。そのフレーズはどこから来たんだろう?
 煥先輩はマイクの片付けを始めた。文徳先輩がギターをスタンドに立てて、煥先輩の肩に手を載せた。
「背負い込むなよ。気晴らしに、バイク走らせてきたらどうだ?」
「そうしようと思ってた」
「道は選べよ。春先は警察がうるさい」
「わかってる」
 煥先輩は瑪都流のメンバーに小声で謝った。亜美先輩が肩をすくめて、牛富先輩はニッコリ笑って、雄先輩は手を振った。煥先輩がわたしを振り返った。
「帰るぞ」
 煥先輩はスタスタとドアに向かう。わたしは慌ててカバンをつかんだ。
 小夜子が声をあげた。
「待って、煥さん!」
 煥先輩が無言で振り返る。小夜子は胸の前でギュッと手を握った。
「わたしも一緒に行っていいですか? 嫦娥《じょうが》公園のそばまで」
 煥先輩がそっぽを向いた。
「ダメだ」
「ど、どうして……」
「面倒見きれねえ」
 小夜子は、イヤイヤをするように首を左右に振った。長い黒髪がふわりと舞い上がる。
【お願い! 一緒に帰りたい!】
 文徳先輩が、頭痛でもするみたいにこめかみを押さえながら、煥先輩に言った。
「鈴蘭さんと小夜子さんを送っていけ」
 煥先輩は目を丸くした。でも、口答えせずに、しぶしぶといった様子でうなずいた。