「わたし、文徳先輩のことが好きでした」
 泣きそうな声が、ポツリとこぼれた。
「鈴蘭さん?」
「去年のオープンキャンパスのときも、今年の入学式のときも、わたしが校内で迷ったときも、生徒会長の文徳先輩はカッコよくて、好きでした。亜美先輩とのことを知って、悲しかった。わたし、一度、間違いをしてしまいました。そのせいで煥先輩に嫌われてます」
「煥に嫌われてる? そうかな?」
「嫌われてます。なのに、煥先輩はわたしを守ってくれる。煥先輩は強くて、頼りになって、だから、気付いたら、わたし……」
 言葉が続かなくなる。声が震えて、息が震えて。
 文徳先輩がゆっくりと、かぶりを振った
「こう言ったら失礼かもしれないけど、鈴蘭さんはたぶん、いろいろ勘違いしてるよ」
「勘違い……」
 文徳先輩はいつもの笑顔だった。生徒会長としての、品行方正で頼もしげな、よそゆきの笑顔だ。
「おれは目立つ存在だから、憧れてもらうことはよくある。でも、それは恋じゃない。少なくとも、おれが知ってる恋とは違う。恋に条件やスペックは関係ないんだ」
 わたしが文徳先輩に惹かれた理由は、一言でまとめると、完璧だからだ。完璧な条件、完璧なスペックだから。
 そうだ。恋い焦がれたというよりも、ほしいと思った。モノみたいに。
「おれの彼女の亜美は、美人で料理がうまいし、腕も立つし、ベースも弾ける。だけど、完璧なんかじゃないんだよね。成績は普通だし、気が強すぎる。それでも、おれは完璧じゃない亜美が好きだ。完璧になってほしいなんて望まない。こういうのが、おれの恋だ」
「わたしの感情は、それじゃあ……」
「ただの憧れ、だろうね。失礼なことばかり言って悪いけど、本気の恋かどうか、目を見ればわかるよ。おれは煥と違って、鈍いわけじゃないから」
「じゃあ、文徳先輩、わたしが先輩のこと見てるって知ってたのに、気付かないふりしてたんですか?」
「傷付けてごめんね。でも、それ以外のやり方はわからない。こんなふうにオープンに話し合うんじゃなきゃ、恋だ憧れだなんて、お互い恥ずかしくて口に出せないだろう?」
 文徳先輩は冷静で確信的で、何もかもを見通しているみたいで、わたしの弱い心はつい甘えてしまった。自分ひとりで抱え切れない苦しみを、わたしは言葉にして吐き出した。
「わたし、煥先輩のことが好きなんです。さっき気付きました。ほんとはこの気持ち、たぶん、もっと前からで。なのに、煥先輩には嫌われてるんです。昼休みも避けられて、わたし、どうしたらいいか……」
 うつむいた頭に、ポンと温かいものが載せられた。文徳先輩の手のひらだ。
「ありがとう。ひねくれ者の弟のことを好きになってくれて」
 涙が出た。さっきも泣いたのに。
「心が、苦しいです。こんなに苦しいのは、初めてで……わ、わたし弱くて、助けられてばっかりで……でもっ、煥先輩は守ってくれて、それが当たり前、みたいに……」
 わたしは、わたしを信用できない。臆病で卑怯だ。思い込みが激しくて、何度も煥先輩を傷付けて怒らせた。
 なのに、煥先輩はわたしを信用してくれる。その温かさと優しさと強さが、胸に痛い。
「わたしは、想ってもらう価値もない。でも、わかってるけど……わたしだけを、想ってほしい。煥先輩のことを考えたら、頭がぐちゃぐちゃになる。つらいです……っ」
 文徳先輩が頭を撫でてくれる。ポン、ポン、と子どもをあやすようなリズムで。
「恋って、そうだよ。キレイな形をしてないんだよ。ぐちゃぐちゃなんだ。大切にしたいのに、破壊したくもなる」
 ありのままの煥先輩を好きになった。だけど、煥先輩の笑顔を見てみたい。わたしの前でだけ、笑ってほしい。
 人に触れられるのが苦手な煥先輩は、そのままでかまわない。ただ、わたしが触れることだけ許してくれるなら。
 煥先輩のことが好きで大切で、同時に、煥先輩のガードを全部、破壊したい。わたしだけが、無防備な煥先輩を知りたい。
 わたしはしばらく泣いていた。文徳先輩はずっと、わたしの頭を撫でてくれた。どうにか泣き止んでハンカチで顔を拭いたとき、文徳先輩は紅茶を淹れ直してくれた。
「少しは落ち着いた?」
「はい、ありがとうございます」
「だったらよかった。おれはちょっと生徒会の仕事をしようかな。鈴蘭さんも手伝ってくれる? 印刷物を仕分けるだけの単純作業なんだけど」
「わかりました。お手伝いさせてください」
 それから放課後になるまで、わたしは文徳先輩の仕事の手伝いをした。その後もわたしは教室に戻らず、自分の荷物とギターを教室から回収してきた文徳先輩に連れられて、軽音部室に向かった。
 文徳先輩が軽音部室の鍵を開ける。その背中をぼんやりと見ていたら、突然、後ろから声をかけられた。
「鈴蘭?」
 ビクリとして振り返る。
「小夜子……」
「よかったー、やっぱり鈴蘭だった!」
「どうしてここに?」
「あのね、鈴蘭のカバン、届けに来たの」
 小夜子は、二つ持ったカバンのうちの片方をわたしに差し出した。わたしはカバンを受け取った。中を開けると、確かにわたしのだ。
「あ、ありがとう」
 小夜子はホッとした様子で微笑んだ。
「鈴蘭が保健室にも教室にもいなくて、探したんだよ。普通科の寧々ちゃんって子から、放課後は図書室にいるはずって聞いて、こっちの棟に来てみたところ。図書室、この先でしょ?」
 わたしはうなずいた。声がうまく出ない。小夜子には軽音部室に来てほしくなかった。黙っていようと考えていたのに。
 文徳先輩がわたしと小夜子を見比べた。
「鈴蘭さんと同じクラス、かな?」
 小夜子は文徳先輩にペコッと頭を下げた。
「進学科一年の玉宮小夜子です。あのぉ、ひょっとして、瑪都流《バァトル》の伊呂波《いろは》文徳さん?」
「おれのこと、知ってるんだ?」
 小夜子がパッと顔を輝かせた。
「わたし、瑪都流のファンなんです! 特に煥さんの大ファンで! 今から練習なんですか?」
 文徳先輩が気遣わしげな目でわたしを見た。わたしは無理やり微笑んだ。
「小夜子は、煥先輩と話してみたいんだそうです」
 勢い込んで、小夜子は言った。
「煥さんが来るまで待たせてもらえませんかっ?」
 文徳先輩がちょっと悩む顔をした。
「んー、普段はそういうの、断ってるんだけど」
「ご迷惑にはならないようにします! 今日だけでいいんです! お願いします!」
「まあ……約束してくれるなら。だけど、煥が来るかどうか、わからないよ」
「えっ?」
 わたしと小夜子は同時に声をあげた。文徳先輩は栗色の頭を掻いた。
「今日の昼休みの様子だと、歌える感じじゃなかった。あいつの歌、精神面に左右されるからさ、ダメなときはほんとにダメなんだよ。そういう日は練習に来ない」
 小夜子が泣きそうな顔をした。わたしもたぶん似たようなものだ。
 文徳先輩は仕方なそうに息をついた。
「待ってていいよ。中に入って」