長江先輩が手近な椅子に座った。
「やっと海ちゃんがもとに戻った~。食べ物の力って偉大だね」
「どうもお騒がせしました」
 海牙さんは、ウェーブした髪を掻き上げた。
 わたしは深呼吸して、煥先輩の寝顔のイメージを頭から追い払った。
「煥先輩は、まだ来ないんでしょうか?」
「まだっていうか、あっきーは来ないよ。一人になりたいんだってさ」
「そう、ですか」
「ま、あっきーにも改めて話すよ。今はとりあえず、鈴蘭ちゃんに聞いてほしい。おれらの事情、話すからさ」
 海牙さんが長江先輩の言葉を引き継いだ。
「ぼくがあせっているという煥くんの指摘は全面的に正しかったと、今にして思います。ぼくにはもともと、強迫観念があるんですよ」
 強迫観念というのは、精神症状の一つだ。「本人の意志とは関係なく、不快・不安な思考をもたらす観念」のことを強迫観念と呼ぶ。
「海牙さんの強迫観念って?」
「想像しづらいかもしれませんが、ぼくの視界には、数値化された情報がつねに現れ続けます。それが力学《フィジックス》という能力です。ぼくは、現れ続ける情報を処理し続けないといけない気がして、落ち着かないんです。物心ついたときから、こんなふうなんですよ」
 海牙さんは制服のポケットから知恵の輪を出した。絡み合う四つのリングを、あっさりとバラバラにほどく。そして再び、絡み合う形へ。海牙さんの指先の動きは止まらない。
「ぼくは先代の預かり手を知らないんです。曾祖父だったんですけど、ぼくが生まれた日に亡くなりました。しかも、ぼくの父は分家の出で、曾祖父と会ったことがなかったそうです」
 海牙さんの目は知恵の輪だけを見ている。知恵の輪は、海牙さんにとって確実に処理できる情報だから、精神的な安定をもたらす道具なんだろう。
「祖父母に聞いた話ですが、曽祖父はめちゃくちゃな人だったそうです。阿里家の資産を食い潰して破産して、挙句の果てに認知症になって、施設に入って威張り散らして。しかも、リヒちゃんに似たチカラの持ち主でした。マインドコントロールで、好き放題ですよ」
 海牙さんの口調は軽やかで、自分の身の上話をしている雰囲気ではない。そういう話し方が、海牙さんの癖なのかもしれない。
「曽祖父が家系の財産を食い潰したから、預かり手として正統に阿里家を相続してしまったぼくも、ぼくの両親も、裕福ではありません。両親は平凡で温かい人たちですよ。意外でしょう?」
 失礼だけれど、うなずいてしまった。だって、海牙さんは平凡からほど遠いし、大都高校は学費がすごく高いらしいし。
「ぼくは不気味な子どもでした。道路を通り過ぎる車の時速を延々と言い続ける。天体を見上げて地球との距離を言い当てる。人間の目には観測不能なブラックホールの位置を指摘する。でも、両親は普通に育ててくれました。だから申し訳なくて、家を離れたかった」
「申し訳なくて?」
「ええ。早く両親を不気味な息子から解放してあげるために、ぼくは奨学金を獲って大都高校に入学しました。今は奨学金の出資者である平井さんの家に下宿しています。実家にいたころよりは気楽です。平井さん自身が能力者だしね」
 海牙さんが目を閉じる。言葉を探しているように見えた。
「何が言いたいかというと、ぼくは、未処理の情報がある状態に弱いんです。つまり、まさに今の状態ですよ。玄獣珠がツルギになって以来の状態。じっとしていられないんです。おかげで、行動が先走ってしまいました。みんなに迷惑をかけましたね。ごめんなさい」
 人と話をするときには目を見て話せ、目をそらすのは不誠実だ、小学生のころに教わった。
 でも、目を閉じた海牙さんは誠実だ。誰よりも素早い情報処理能力を自分の内側だけに向けて、視界に入るどんな数値にも左右されない環境にあるのだから。
「海牙さんに、一つ訊いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「自分は玄獣珠に願いを掛けていない、十七年の人生を懸けて誓えるって、前にそう言ってましたよね。その理由は、あせってる理由と同じですか?」
 海牙さんはうなずいた。
「玄獣珠は、未処理の情報のかたまりです。ぼくが知る物理学では絶対に処理できない。それを預かるストレスだけでも重いんです。願いを掛けるなんて、想像したくもない。意味がわからなくて、吐き気がします」
 実際に海牙さんは吐いていた。時間の巻き戻しっていう、超常的な現象の直後に。
 悪役を演じることへのストレスと、処理不能な情報へのストレス。二重に苦しい状態だったんだ。
 椅子に掛けた長江先輩が脚を組んだ。
「おれもね、朱獣珠に願いを掛けない。絶対にそれだけはやらない。朱獣珠の預かり手って役回りも、すごいイヤだ。鈴蘭ちゃん、おれの親父が誰か教えたっけ?」
「襄陽学園の理事長先生でしょう?」
「うん、そう。この学園のこと、デカくてすご~いって思う?」
「設備とか、いろいろすごい学校だと思います。キレイだし、芸術系のコースもあるし」
 長江先輩が口元を歪めて、皮肉な笑い方をした。
「親父は無能だよ。朱獣珠に願いを掛けるだけの能しかない」
「朱獣珠に、願いを?」
「学園をデカくしたのは、朱獣珠のチカラだ。会計が破綻しかけるたびに、指導者の確保に失敗するたびに、生徒が大問題を起こすたびに、要は何かのトラブルが発生するたびに、親父は朱獣珠のチカラを使ってきた。代償は、ペットの命」
「嘘……」
「いや、逆だね。朱獣珠の代償にするためにペットがうちにいたんだ」
 願いの代償として最も価値が重いものは何か。平井さんがその問いを出したとき、長江先輩は即座に正しい答えを示した。
 命、と。
 実際に見てきたから知っていたんだ。
「おれね、動物、好きなんだよね。ペット、かわいがっちゃうんだ。次もすぐ死んじゃうってわかってても。でね、ペットだけじゃなくて、おれの母親も代償になったんだよね。母親は今、意識不明の寝たきり状態」
 長江先輩の朱い瞳に、暗い光がともっている。怒りなのか、悲しみなのか、憎しみなのか。その感情を知らないわたしには、読み取れない。
「さすがに怖くなるよね。おれも姉貴も、国外に逃げてさ、フランス滞在一年間。このまま平和に過ごせるかなって思ってた。でも親父は、今度は海ちゃんに目を付けた。二ヶ月くらい前にそれがわかって、慌てて帰国して、海ちゃんに初めて会ったのは一ヶ月前」
「長江先輩と理事長先生の関係は今、どうなってるんですか?」
「休戦状態ってとこ。学園の運営が安定してるらしくて。でも、そのうちぶっ飛ばすけどね。おれが理事長の椅子を乗っ取るよ」
 へらへらした笑い方もしない。おちゃらけた話し方もしない。本気の表情をした長江先輩は堂々として、気迫に満ちている。
 海牙さんがまぶたを開いた。
「これがぼくたちの事情です。仲間と認めた以上は、知っておいてほしかったんですよ」
「聞かせていただいて、ありがとうございます。やっと、意味がわかりました。長江先輩と海牙さんがわたしを攻撃した意味。わたしの持ってるものは軽いから」
 わたしは、悩みの少ない狭い世界で生きてきた。青獣珠のことにもチカラのことにも、とりたてて苦しんだことはない。
 お嬢さま育ちが理由の小さないじめはあった。でも、長江先輩や海牙さんみたいに家を離れるなんて、想像したこともなかった。
 こんなわたしだから、軽い気持ちで願いをいだいてしまう。おまじないが好きで、占いの行方も気になって、「いいことがありますように」と、いつも心のどこかでふわふわと他力本願している。
 長江先輩が立ち上がった。海牙さんが知恵の輪をポケットにしまった。
「そろそろ授業が終わっちゃうね~。チャイムが鳴ったら、みんな起きるよ」
「その前に、ぼくは退散しないとね。大都に戻ります」
 長江先輩と海牙さんが廊下のほうへ向かう。
「待ってください! わたしのこと、さ、刺さないんですか?」
 長江先輩がニッと笑った。海牙さんが髪を掻き上げた。
「おれはもうイヤだって言ったじゃん」
「青獣珠と相談して、自分で判断してください」
 二人が保健室を出ていく。全員が眠りこけた部屋に、わたしは取り残された。