昼休み終了のチャイムが鳴った。いつの間に、そんなに経っていたんだろう? わたしは屋上で立ち尽くしたままだった。涙も出てこない。
 今のわたしの心の中でいちばん大きな存在が誰なのか、ハッキリしている。
 最初に四月十五日が始まったとき、わたしは文徳先輩に恋をしていた。いつ変わったんだろう?
「煥先輩のことが好き……」
 守ってくれる。どうしてわたしなんかを? 何度尋ねても、直感としか答えてくれない。つまり、無条件にわたしを信じてくれている。
 わたし自身、わたしのことを信用できない。それなのに、煥先輩は。
 だから、煥先輩は残酷なんだ。わたしの命を救ってくれた。そのせいで刺された。途方もない優しさと強さを目の前で見せられた。
 でも、煥先輩。あなたは、わたしじゃなくても守ったんでしょう?
 本館の階段を下り始めたところで、思いがけず呼び止められた。
「鈴蘭! どうしたの! なんか、ものすごくフラフラしてるよ?」
「小夜子……」
「授業、受けられる? 保健室に行ったほうがいいんじゃない?」
 大丈夫、と言えたらいいけれど、さすがに全然、大丈夫なんかじゃない。わたしは小夜子から顔を背けた。今、小夜子と目を合わせるのはつらい。
 ごめん、小夜子。わたしも同じだから。煥先輩のことが好きだから。
「保健室、行くね」
「一人で行ける?」
「うん、小夜子は教室に戻って」
 放課後、ごめんね。小夜子を煥先輩に紹介できない。
 襄陽学園に入学して初めて保健室に行った。保健室には、カウンセリング用の小部屋が併設されている。教室に行けない生徒が自習するための小部屋も、その隣にある。
 わたしが今どんなふうに具合が悪いのか、何とも言えない。胃が痛いのは確かだった。睡眠不足で、食欲もない。巻き戻す一日は長すぎて、精神的にひどく疲れている。
 幸いベッドが一つ空いていて、そこで休ませてもらうことになった。横になってみるけれど眠れるはずもなくて、涙がとめどなくあふれてきた。
 煥先輩が好き。
 誰よりもステキな声をしている。本当は繊細で純粋で優しい。笑顔を見せてくれない。強くて傷付きやすい心の持ち主だ。
 天井がにじんでいる。嗚咽で息が詰まる。
 胸が、体の奥が、とても痛くて苦しい。胃が痛むのとは違う場所がギュッとよじれて、きしんでいる。
 切ないって、こういうことなんだ。
 ノーカウントだろ、と言った煥先輩の乾いた口調がリフレインしている。キスしたのに。覚えているのに。大切な瞬間だったのに。
 自分の唇に触れてみる。キスをした証拠なんて何も残っていない。
 未来の自分に訊いてみたい。わたしは宝珠に何を願うの? 月に願うのと同じことを? 恋を叶えたいって言うの? 誰との恋を叶えるの?
 自分の願いが、もうわからない。ポーチに付けた、三日月のアミュレット。恋に効くはずのお守りは何も導いてくれない。
 突然。
【お呼び出し申し上げま~す。鈴蘭ちゃ~ん、あっき~、今どこいるの? 教室にいないっぽいけど、校内にいる? いたら返事して~。ちょっと話し足りないんだよね。メールでも電話でも、待ってま~す】
 頭の中に直接響いてくる、長江先輩の号令《コマンド》だった。
 わたしはポーチからケータイを出した。わたしも話し足りない。煥先輩に誤解されたままなのはつらい。
 新規メール作成。宛先は、煥先輩と長江先輩と海牙さん。
〈鈴蘭です。保健室で休んでいます〉
 それだけ書いて送信した。