長江先輩が、手に持ったままのスマホを振った。
「とりあえず、連絡先、交換しない? この先どんなふうに進むとしても、フツーに連絡とれるほうが便利でしょ?」
そういえば、わたし、煥先輩の連絡先すら知らない。
煥先輩と海牙さんがスマホを取り出した。二人とも休戦に同意ってことだ。
わたしもポーチからケータイを出した。三日月ストラップがゆらゆら揺れるケータイに、三人の視線が集中する。
「珍しい型を使ってるんですね。お年寄り向けですか?」
「ち、違いますっ。一応普通の、全年齢向けのタイプ……だと、思います」
「不便じゃねぇのか?」
「スマホ使ったことないからわかりません。でも、わたし、ネット経由で音楽を聴いたり動画を観たりしたことないし、電話とメールができれば人と通信できるし、気になった情報をちょっとだけ調べたりブログを見たりするのは、この型でもできますし」
「あ~、了解。ま、確かに意外とどーにでもなるよね~。おれもこないだまで国外にいてさ、プリペイドのしょぼいケータイ使ってた時期があったんだけど。んじゃあ、鈴蘭ちゃんのデバイスに合わせて、連絡はSNSじゃなくて、メール使おっか」
「た、助かります」
スマホの画面にメールアドレスのQRコードを表示してもらって、わたしが読み取る。わたしの連絡先を入れたメールを三人に一斉送信する。ほとんどタイムラグなしで、三台のスマホがメールを受信した。
煥先輩の指先がビクッと震えて、固まった。全員がその動きに気付くくらい、明白に。
「えっと、煥先輩、どうかしました?」
「ブルームーンじゃ、ないのか……」
「え?」
「いや……その、ほかに、アドレスは?」
「わたしはこれだけですよ。恥ずかしいんですけど、機械の操作は本当に苦手で、スマホもパソコンも全然うまく使えなくて、子どものころに祖母から叩き込んでもらったメールとアドレス帳の使い方しかわかってないんです」
「そうか。なら、別にいい」
煥先輩は下唇を噛み締めた。
その唇はすごく柔らかかった。傷が付くようなことをしてほしくない。
「あっ……」
思い出してしまった。煥先輩とキスをしたこと。抱きしめられたこと。煥先輩が口移しで痛みを受け取ってくれたから、わたしが救われたこと。
自分が信じられない。ファーストキスという大事件を、状況が状況とはいえ、今まで忘れていたなんて。
空気の温度が急に上がったように感じた。ドキドキして顔が熱い。わたしはさりげなく煥先輩から離れた。
長江先輩が海牙さんの肩に手を載せた。
「腹、減ってないかい? どっかに何か食べに行こうよ」
「ええ、まあ、そうですね」
「海ちゃんは人一倍、運動量があるんだから、きちんと補給しなきゃ倒れるよ。さ~、行こう行こう! ってことで、じゃ~ね、お二人さん」
長江先輩が海牙さんを連れて屋上から出ていった。ドアが閉まる。煥先輩と二人きりにされた。胸の鼓動が、ありえないくらい速くなる。
わたしはあせりながら、まだ言えずにいたお礼を口にした。
「あ、煥先輩、た、助けていただいて、ありがとうございました」
沈黙。風の音。
わたしは審判を待つ気持ちで、そっと煥先輩を見上げた。煥先輩は考え込むような様子で、大きな手で口元を隠していた。
「あの未来は、起こらない」
手のひら越しに転がされた言葉は平坦だった。銀髪の間からのぞく肌は、少しも赤くなっていない。
「どういう意味ですか?」
「理仁も海牙も、もう誰も刺す気がない。だから、今日の夜、あんたは公園で刺されない。おれがあんたの傷を癒やすという一枝は消えた。最初から存在しないことになったんだ。だから、ノーカウントだろ」
わたしは冷水を浴びせられた気分になる。胸のドキドキが急速に引いていく。
「ノーカウント……」
煥先輩は両手をポケットに突っ込んで、校舎に続くドアへと歩き出した。その背中が、感情のこもらない言葉をわたしへと放り投げる。
「キスは、しないんだ。オレが相手じゃなくて、よかったな」
「え……あ、煥先輩、待って」
「あんたは、兄貴みてぇなのが好きなんだろ?」
ちょっと待って、煥先輩。
違う。誤解です。確かに、わたしは文徳先輩のことが好きだった。でも煥先輩、今は違うんです。
わたしの命を救ってくれたのは、あなたです。必死で痛みに耐えてくれたのは、あなたです。わたしの心を揺さぶったのは、あなたです。
抱きしめてくれた腕。触れていた唇。見つめてくれたまなざし。全部全部、わたしは覚えている。ノーカウントだなんて言いたくない。
「煥先輩、わたしは……っ」
ドアを開けた煥先輩が、振り返りもせずにドアの向こうに消えた。ドアが閉まった。
心に穴が開いた気がした。
「とりあえず、連絡先、交換しない? この先どんなふうに進むとしても、フツーに連絡とれるほうが便利でしょ?」
そういえば、わたし、煥先輩の連絡先すら知らない。
煥先輩と海牙さんがスマホを取り出した。二人とも休戦に同意ってことだ。
わたしもポーチからケータイを出した。三日月ストラップがゆらゆら揺れるケータイに、三人の視線が集中する。
「珍しい型を使ってるんですね。お年寄り向けですか?」
「ち、違いますっ。一応普通の、全年齢向けのタイプ……だと、思います」
「不便じゃねぇのか?」
「スマホ使ったことないからわかりません。でも、わたし、ネット経由で音楽を聴いたり動画を観たりしたことないし、電話とメールができれば人と通信できるし、気になった情報をちょっとだけ調べたりブログを見たりするのは、この型でもできますし」
「あ~、了解。ま、確かに意外とどーにでもなるよね~。おれもこないだまで国外にいてさ、プリペイドのしょぼいケータイ使ってた時期があったんだけど。んじゃあ、鈴蘭ちゃんのデバイスに合わせて、連絡はSNSじゃなくて、メール使おっか」
「た、助かります」
スマホの画面にメールアドレスのQRコードを表示してもらって、わたしが読み取る。わたしの連絡先を入れたメールを三人に一斉送信する。ほとんどタイムラグなしで、三台のスマホがメールを受信した。
煥先輩の指先がビクッと震えて、固まった。全員がその動きに気付くくらい、明白に。
「えっと、煥先輩、どうかしました?」
「ブルームーンじゃ、ないのか……」
「え?」
「いや……その、ほかに、アドレスは?」
「わたしはこれだけですよ。恥ずかしいんですけど、機械の操作は本当に苦手で、スマホもパソコンも全然うまく使えなくて、子どものころに祖母から叩き込んでもらったメールとアドレス帳の使い方しかわかってないんです」
「そうか。なら、別にいい」
煥先輩は下唇を噛み締めた。
その唇はすごく柔らかかった。傷が付くようなことをしてほしくない。
「あっ……」
思い出してしまった。煥先輩とキスをしたこと。抱きしめられたこと。煥先輩が口移しで痛みを受け取ってくれたから、わたしが救われたこと。
自分が信じられない。ファーストキスという大事件を、状況が状況とはいえ、今まで忘れていたなんて。
空気の温度が急に上がったように感じた。ドキドキして顔が熱い。わたしはさりげなく煥先輩から離れた。
長江先輩が海牙さんの肩に手を載せた。
「腹、減ってないかい? どっかに何か食べに行こうよ」
「ええ、まあ、そうですね」
「海ちゃんは人一倍、運動量があるんだから、きちんと補給しなきゃ倒れるよ。さ~、行こう行こう! ってことで、じゃ~ね、お二人さん」
長江先輩が海牙さんを連れて屋上から出ていった。ドアが閉まる。煥先輩と二人きりにされた。胸の鼓動が、ありえないくらい速くなる。
わたしはあせりながら、まだ言えずにいたお礼を口にした。
「あ、煥先輩、た、助けていただいて、ありがとうございました」
沈黙。風の音。
わたしは審判を待つ気持ちで、そっと煥先輩を見上げた。煥先輩は考え込むような様子で、大きな手で口元を隠していた。
「あの未来は、起こらない」
手のひら越しに転がされた言葉は平坦だった。銀髪の間からのぞく肌は、少しも赤くなっていない。
「どういう意味ですか?」
「理仁も海牙も、もう誰も刺す気がない。だから、今日の夜、あんたは公園で刺されない。おれがあんたの傷を癒やすという一枝は消えた。最初から存在しないことになったんだ。だから、ノーカウントだろ」
わたしは冷水を浴びせられた気分になる。胸のドキドキが急速に引いていく。
「ノーカウント……」
煥先輩は両手をポケットに突っ込んで、校舎に続くドアへと歩き出した。その背中が、感情のこもらない言葉をわたしへと放り投げる。
「キスは、しないんだ。オレが相手じゃなくて、よかったな」
「え……あ、煥先輩、待って」
「あんたは、兄貴みてぇなのが好きなんだろ?」
ちょっと待って、煥先輩。
違う。誤解です。確かに、わたしは文徳先輩のことが好きだった。でも煥先輩、今は違うんです。
わたしの命を救ってくれたのは、あなたです。必死で痛みに耐えてくれたのは、あなたです。わたしの心を揺さぶったのは、あなたです。
抱きしめてくれた腕。触れていた唇。見つめてくれたまなざし。全部全部、わたしは覚えている。ノーカウントだなんて言いたくない。
「煥先輩、わたしは……っ」
ドアを開けた煥先輩が、振り返りもせずにドアの向こうに消えた。ドアが閉まった。
心に穴が開いた気がした。