朱いものが、ひらめいた。
 朱獣珠の刃だと気付いた瞬間、わたしの胸に熱が突き立てられた。
 仰向けに倒れながら、血が噴き出すのが見えた。ツルギを手にした長江先輩が血を浴びる。
 刺されたんだ。
 わたしののどは叫ぼうとした。恐怖と激痛。息を吸い込む。ゴポリと肺が異音をたてる。胸の傷から、血まみれの空気が逃げる。
「鈴蘭ッ!」
 煥先輩に抱き起された。慌てた顔をしている。
 ちゃんと見える。ちゃんと聞こえる。焼け付く痛みは意識を奪うほどではなくて、痛いのに、苦しいのに、目も耳もハッキリしている。
「心臓は無事です。肺が裂けてますね。酸欠で脳が停止するまで、このままです。最も苦しい死に方の一つですよ。だから、ぼくがやると言ったのに」
 海牙さんの冷淡な声に絶望する。
 血の匂いがする。ままならない呼吸全部が、血の匂いに染まっている。
「おい、鈴蘭! 聞こえるか!」
 クリスタルのような声が、わたしを呼ぶ。わたしの眼前で、金色のまなざしが真剣にきらめいている。
「チカラを使え。自分の傷を治せ」
 そっか。わたし、傷を治せる。でも、自分のはやったことないんです。自分の傷は、痛みを移せないから。
 肺が壊れた音をたてている。苦しい苦しい苦しい。
 血の匂いに溺れてしまう。煥先輩にすがり付きたいのに、体が冷えて震えて、何もできない。
 助けて。煥先輩、助けて。
「オレを使え。オレの体に痛みを移せば、治せるはずだろ!」
 やったことない。できるのかわからない。でも、ちゃんと治るのなら。この苦痛が消えてくれるのなら。
 血の赤じゃなくて、光の青を思い出す。痛みを、いつもはわたしが引き受けるけれど、今は煥先輩が引き受けてくれるから。
 痛みを。
 だけど、どうすればいいの? 息が続かない。痛みを吸い出すイメージなんです。呼吸に連動させるんです。それを、ねえ、今はどうすればいいの?
 吸い出すんじゃなくて、行方不明になる呼吸の道筋で、痛みをどこにもやれなくて、どうしようもなくて。
 わたしはあえぐ。指先の震えが止まらない。意識に靄《もや》がかかり始める。
「鈴蘭!」
 わたしを抱きしめる腕を感じる。でも、同期できない。痛みを引き受けるときの、痛みを吸い出すときの、あの感覚が遠い。
 咳き込んだ瞬間、口と胸から血があふれた。息を、必死で吸う。
 煥先輩がハッと両目を見張った。
「逆だ。吸い出すんじゃなくて、痛みを吐き出せ。オレが……」
 煥先輩がわたしの痛みを吸い出すから。
 唇が重なった。
 わたしの震える息が、煥先輩の口へと流れ込んだ。そして流れが生まれた。
 脈打つ痛みを、青い光が絡め取る。光は息と同じ道を通って吐き出される。唇を伝って、息と同じようにのどを通して、煥先輩がわたしの痛みを吸い込む。
 煥先輩が体をこわばらせた。わたしを抱く腕に力が込められる。
 傷が癒えていく。煥先輩に抱きしめられている。煥先輩とキスしている。煥先輩がわたしを救ってくれる。あの苦痛を、迷いもなく引き受けてくれる。
 いつの間にか、わたしは目を閉じていた。体の感覚が戻ってくる。煥先輩の体温が優しい。煥先輩の唇は、とろけそうに柔らかい。
 わたし、煥先輩とキスをしている。
 すべての傷がふさがったとき、わたしの中から青い光が消えて、煥先輩が体の力を抜いた。唇がそっと離れた。
「うまくいったのか?」
 ひそめられた眉。切れ長な目尻に涙がにじんでいる。大きすぎる痛みをこらえたせいだ。声ひとつあげずに、煥先輩は耐えてくれた。
「煥先輩……」
 わたしは何を言おうとしたんだろう? お礼? それとも。
 続きを阻むように、冷淡な声が降ってきた。
「傷を治すチカラ、癒傷《ナース》ですか。致死的な傷さえふさいでしまうとは驚異的です。それにしても、王子さまのキスでお姫さまが生き返るなんてね。まるでおとぎ話だ」
 煥先輩がわたしの体を離した。立ち上がって身構えようとして、ふらつく。わたしの代わりに痛んだ胸を押さえている。
 海牙さんが右手を振り上げた。黒い刃に月の光が映り込む。
「煥くんは違反者じゃないでしょうけどね」
 ツルギの姿の玄獣珠が、煥先輩の胸を貫いた。
 満月の下の公園の景色が掻き消えた。


座標
E(嫦娥公園内,4月17日19:49,伊呂波煥)

D(学園屋上,4月17日13:14,阿里海牙・長江理仁)