PRINCESS SWORD―姫のツルギは恋を貫く―

 放課後になった。
 勝手なことをしたら怒られるかもしれないと思いながらも、引っ込みがつかなくて、わたしは小夜子を連れて軽音部室に向かった。
 軽音部にはいくつものバンドが所属している。部室は二つあって、人気と実力がナンバーワンのバンドが一つを占領する。残りのバンドはもう一つをシェアする。それが襄陽学園の軽音部のルールらしい。
 今のナンバーワンは、当然のごとく瑪都流《バァトル》だ。瑪都流が使っているほうの部室は、もう一方より少し狭いけれど、音響設備がすごくいいんだって。
 そういう話を、小夜子に聞かせてあげた。わたしもつい最近知ったばかりの情報だけれど。
 わたしたちが軽音部室に着いたとき、文徳《ふみのり》先輩がドアの鍵を開けるところだった。
「あれ、鈴蘭さん? 今日は図書室じゃないんだ?」
「友達を、煥《あきら》先輩に紹介したくて。小夜子は煥先輩の大ファンなんです」
 小夜子がペコッと頭を下げた。サラサラの髪が弾む。
「初めまして、玉宮小夜子です! どぉぉしても煥さんにお会いしたくて、鈴蘭に無理を言って、連れててもらいました。お邪魔かとは思ったんですけどっ」
 文徳先輩がクスッと笑った。
「珍しいね、煥に会いたい子だなんて。あいつ、見た目が怖いだろ? 愛想ないし。おかげで、近寄ってくる女の子はめったにいない」
「だけど! 煥さんって、本当は優しい人ですよねっ? 歌を聴いてたらわかります。すごくピュアで優しいです!」
 そこまで断言できる小夜子がすごい。
 確かに、煥先輩はケンカが強くて無愛想なだけの人ではないけれど、感情がわかりづらくてミステリアスで、接し方がわからない。
 文徳先輩は部室の中を指差した。
「小夜子さん、だっけ? 煥はもうしばらく来ないと思う。よかったら、中で待ってて。ついでに練習を見学していく?」
「いいんですか!」
「今日だけ、特別にね。鈴蘭さんも一緒にどう?」
 文徳先輩のお誘いがあって、小夜子も「一緒にいたい」と言ってくれて、わたしは瑪都流の練習を見学することにした。
 そうこうするうちに、雄先輩が来た。亜美先輩と牛富先輩も、まもなく合流した。
 文徳先輩がちょっとおどけた。
「今日の練習はお客さんがいるんだ。しかも、学園きっての美人が二人。気合いが入るよな」
 わたしは亜美先輩の手前、恐縮してしまった。でも、亜美先輩は平然として、怒るどころか同意してみせた。
「そうだね。今年の一年はかわいい子が多いよ。寧々もかわいいし」
 わたしと小夜子は、部室の隅の丸椅子に並んで腰掛けた。
 数日前までロックという音楽をまともに聴いたこともなかったのに、今こうして軽音部の練習を見学させてもらっている。不思議な巡り合わせだ。
「でも、今日もまた夜更かしだな。予習とか課題とか多くて、終わらないよね」
「鈴蘭、ごめんね。わたしのわがままに付き合わせちゃって」
「あ、ううん、平気。わたしも見学してみたかったし」
「だったらいいんだけど。でも、課題の多さはすごいよね」
「みんなSNSでうまく情報交換してるでしょ? わたし、あれできなくて」
「鈴蘭、スマホじゃないケータイだもんね」
「必死でメールだけ覚えたの。それ以外、ほんとにできないの」
「メールだけって、むしろ珍しくない?」
「子どものころにおばあちゃんから叩き込まれて、それっきり進歩できてないんですー」
「スマホやパソコンのほうが簡単だと思うけどな」
 楽器が音出しを始めると、かなりの音量だった。小夜子との会話もままならない。音の大きさに慣れるまでに、しばらくかかった。
 ドアが開いた。煥先輩だ。
 銀髪の姿がのぞいた途端、小夜子が椅子から立った。口元を押さえて、みるみるうちに赤くなる。
 煥先輩はドアを閉めながらこっちを見て、訝《けげん》そうな顔をした。文徳先輩がギターをスタンドに立てた。ほかのメンバーも音を止める。
 文徳先輩がわたしに目配せした。わたしは小夜子の背中を押すけれど、小夜子は固まっている。しょうがないから、わたしは小夜子の手を引っ張って、煥先輩のところへ連れていった。
「煥先輩、紹介します。この子は、同じクラスの玉宮小夜子。瑪都流のファンで、煥先輩の大ファンだそうです」
「す、鈴蘭っ」
「ほんとのことでしょ?」
「で、でも、本人の前でそんな……」
「はい頑張って!」
 わたしは小夜子を煥先輩の真正面に押し出した。小夜子がチラッと振り返る。真っ赤な顔で、うるうるの目。盛大に、恋する乙女しちゃってる。
 小夜子が煥先輩に向き直った。
「お、お会いするのは初めてですね。勝手に一方的に、見つめてたんですけれども。わ、わたし、玉宮小夜子ですっ。高一で、十五歳で、えっと……か、彼氏はいませんっ。一人もいないです、いたことないです!」
 ヒュウ、と雄先輩が口笛を吹いた。牛富先輩が声を殺して笑っている。
 煥先輩が、見せたことのない表情をした。眉根を寄せて目をパチパチさせて、中途半端に口を開いたまま、顔がだんだん赤くなってくる。明らかに困っている。
「ど、どうして、オレなんか……」
 煥先輩、その質問、地雷です。
 小夜子が煥先輩に詰め寄った。
「駅前でのライヴ、ステキでした! 煥さんの声、一瞬で好きになりました。煥さんの姿にも、一瞬で惹かれました。もう、カッコよすぎます! 大好きです!」
 小夜子は勢いよく言い切った。言った後で、バッと口を覆った。悲鳴をあげてわたしに抱き付く。
「ちょっと、小夜子?」
「きゃぁぁぁ、勢い余りすぎたよぉぉぉ!」
「今の、事故?」
 小夜子がガクガクうなずく。瑪都流のメンバーが笑い出した。煥先輩だけ、真っ赤な顔で取り残されている。
 煥先輩はわたしと目が合うと、そっぽを向いた。小夜子のサラサラの髪は、とてもいい香りがした。
 そういうわけで、本格的に練習を始めるまでに時間がかかった。
 牛富先輩はしばらく笑い転げていたし、文徳先輩は煥先輩をからかい続けていたし、ブログ担当の雄先輩はスマホにメモを取っていたし。
 最終的に、亜美先輩が男四人を取りまとめた。「いい加減にしな」って叱咤して、頭を抱える煥先輩をマイクの前に立たせて、とりあえず事態収束。
「ほら、さっさと練習始める! 昨日のライヴの反省点、覚えてるよね? 一つずつ潰していくよ!」
 ライヴの反省点は、活動記録のブログとは別の、鍵のかかったブログで共有しているんだって。いくつかの項目を確認し合ううちに、みんなの表情が引き締まってくる。
 亜美先輩と牛富先輩が、提案されたリズムフレーズを合わせてみる。文徳先輩が雄先輩のシンセサイザーの音色に指示を出す。煥先輩はイヤフォンを付けて目を閉じて、歌の世界に入っていく。
 しばらくそんな時間が流れた。それぞれの楽器が自分の音色を確かめながら、次第にゆるゆると、誰からともなく歩み寄っていく。
 煥先輩がイヤフォンを外した。アイコンタクトが飛び交った。文徳先輩がキャッチ―なフレーズを弾き始めて、それが合図だった。
 曲が始まった。
 瑪都流の結成当時から演奏してきた、と昨日のライヴで聞いた曲だ。文徳先輩が初めて作曲して、煥先輩が初めて詞を書いた思い出の唄《うた》だという。
 ギリギリのところで揺れる心そのものみたいな、攻撃的で繊細で泥だらけでキラキラした、アップテンポのロック。
 生のドラムが全身にビリビリと響く。高音質のシンセサイザーがまばゆい音色を放つ。昨日のストリートライヴでは聴けなかった二つの楽器の叫びを、わたしは初めて体感している。
 密閉された部屋の中では、音が空に吸い込まれる野外とは、すべての楽器の響き方が全然違う。ベースの存在感は太くて、おなかの底を揺さぶられる。ギターの高鳴りは、生き物の咆哮みたいに躍動的だ。
 何より、煥先輩の声に圧倒された。同じ狭い空間でその声を聴けるのは、この上ないぜいたくだ。
 透明感と野性味が重なり合う声だ。硬質で、だけどしなやかで。十分に低くて、でも少年的で。美しいという一言でくくってしまうのは、なんだか違う。尖った何かを秘めた、独特の気品と気迫が、聴く人の胸にまっすぐに突き刺さって、そして柔らかく染み入ってくる。
 小夜子は煥先輩だけを見つめている。煥先輩は、どこでもないどこかを向いている。ひねくれた優しさを歌う正直なまなざしは、銀色の前髪に隠れがちだ。その前髪にいつしか宿った汗のしずくが、ふとした瞬間、キラリと弾ける。
 瑪都流《バァトル》の意味をライヴのMCで聞いた。バァトルとは、勇者だ。ユーラシア大陸に伝わる古い言葉らしい。
 その昔、バァトルの称号を贈るのには、敵も味方もなかったという。バァトルは勝者に限らない。誰よりも強く誇り高く、命を懸けて戦う者こそが、勇者と呼ばれるにふさわしい。
 瑪都流の面々は、何曲か続けて、通しで練習した。その後、それぞれ自分のパートを練習し始める。
 あれをやろうこれをやろうっていう指示があるわけじゃなかった。同じリズムで、暗黙の了解で、全員が動いている。
 文徳先輩がギターケースから一冊のファイルを取り出して、それを手に、わたしたちのところへ来た。
「退屈してない?」
「そんなことないです」
 文徳先輩はわたしにファイルを手渡した。
「これ、煥が書いた詞。読んでやってよ」
 わたしと小夜子は目を見合わせて、ルーズリーフが綴《と》じられたファイルを開いた。
 煥先輩の書く字を初めて見た。キレイな字とはいえない。ちょっと幼い印象だ。でも、一字一字、丁寧に刻み込むように書かれている。
 綴じられた中でいちばん上にあるのは、新曲の歌詞だった。タイトルは『(仮)ディア・ブルームーン』が二重線で消されて、『ビターナイトメッセージ』という決定版が書き添えられている。
 文徳先輩が詞の一ヶ所を指差した。サビの終わりのほうだ。
「青い月のフレーズ、ここがなかなか決まらなかったんだ。流れ星とか、天の川とか、ダークマターとか、煥もいろいろ試してたんだけど」
  青い月よ 消えないで
  この胸の叫びは飼い慣らせないから
 十六日のライヴでは、二回披露した。わたしは合計四回、聴いたことになることになる。印象的なサビはもう覚えていた。
 口ずさんでみたとき、小夜子と声が重なった。小夜子も覚えているんだ。
 文徳先輩がニッコリした。
「女の子の声で聴くと、やっぱり違うね。華やかになるよな」
 小夜子は首を左右に振った。
「煥さんの声じゃなきゃダメです。青い月って、あの切ない声が忘れられません。月を探すみたいに、空を見て歌ってましたよね。その姿も、涙が出そうなくらいステキでした」
 小夜子の黒い瞳に光が躍っている。
 そのとき突然。
「おい、兄貴! 何で勝手にそのファイル見せてんだよ!」
 煥先輩が乱入して、素早くファイルを奪い取った。
 小夜子がフラッとよろめいたから、わたしは慌てて抱き留めた。煥先輩が近すぎて窒息しかけたみたい。さらにはお願い、これくらいで気絶しないで。
 文徳先輩が煥先輩をつかまえた。
「詞を読んでもらってるんだよ。おまえの詞も瑪都流の売りなんだから」
「音源になってるか印刷されてるか、そのどっちかだったら別にいい。でも、字を見られるのはイヤだ」
「直筆のほうが伝わるものもあると思うぞ?」
「だからイヤなんだよ!」
 煥先輩はファイルを離そうとしない。文徳先輩はガシッと煥先輩を羽交い締めにして、いたずらっ子の表情で笑った。
「おまえ、細いな。さすがにこの体勢だと、おれのほうが優勢だろ。純粋な腕力だけなら、おれのほうが強いしな」
「離せ!」
「直筆の詞を読んでもらうくらい、いいだろ? たまにはファンサービスしろよ」
「ふざけんなって!」
「おーい、牛富、雄。ちょっと手伝え」
「手伝うって……おいこら、くすぐるな!」
 カッコいいロックバンドのはずが、男子四人、ぎゃーぎゃー騒いで暴れ出す。運動神経ばつぐんの煥先輩も、ケンカ慣れした三人から寄ってたかってくすぐられると、どうしようもないらしい。
 すかさず歌詞のファイルを奪い取ってきた亜美先輩が、わたしたちのそばで肩をすくめた。
「しょっちゅう、あんな調子。まるで小学生でしょ?」
「煥先輩、大丈夫なんですか? 本気で嫌がってません?」
「気にしなくていいよ。煥は文徳以外の人間に触れられるのを極端に嫌うけど、たまには、あれくらいのショック療法も必要でしょ」
 ショック療法という言葉が痛々しい。親しい幼なじみの雄先輩や牛富先輩でさえ、煥先輩は自分から接触しようとしないんだ。
 わたしと同じことを思ったみたいで、小夜子は眉を曇らせた。
「煥さんって、壊れやすそうです」
 亜美先輩は遠い目をした。
「壊れかけてたことがあるんだよ。小学生のころ、家庭の事情が難しくなって」
 家庭の事情って、ご両親が亡くなったことだろう。
「煥先輩、寂しかったんでしょうか」
「寂しがってた。心のバランスが崩れて、自分のチカラを調整できなくて、友達にケガをさせちゃったんだ。しかも、あの髪と目の色でしょ? 悪魔って呼ばれて嫌われて、あいつはそれ以来、笑わなくなった。人に触れられるのもダメ。集団生活も無理」
「悪魔? 今でも煥先輩がそう呼ばれることがあるのって、そのころからのあだ名なんですか?」
「たぶんね。由来を知ってる人は、ほとんどいない。カッコいい称号だなんて言われてるけど、煥は微塵もそう思ってないだろうね。本来の煥は、ああじゃなかった。百八十度、変わっちゃったんだ」
 瑪都流が瑪都流である理由がわかった気がした。煥先輩の書く詞がヒリヒリ痛い理由も、文徳先輩と煥先輩の結び付きが強い理由も。
 大切なんだ。守りたいんだ。そのために強くあろうと、それぞれが思っているんだ。
 亜美先輩が大きく伸びをした。
「さーって。そろそろ練習再開しようかな。歌詞は読んでていいからね」
「はい」
「こらこら、あんたたち! ふざけるのも、ほどほどにしなよ? まったく、十年前と、やってること変わらないよね」
 亜美先輩は牛富先輩と雄先輩の背中を叩いて、文徳先輩の脇腹を突いた。煥先輩が文徳先輩の拘束から、やっと逃げ出す。
 小夜子が真っ赤な頬を手のひらで覆った。
「どうしよう、鈴蘭。わたし、泣きそう。煥さんがカッコよくて切なくてかわいくて。胸がドキドキしすぎて、困る」
 わかるよ。と、わたしは言おうとした。
 言えなかった。
 わたしが煥先輩に惹かれてしまっては、いけない。
 最終下校時刻ギリギリに練習が終わった。すでに日が落ちて、外は暗い。今夜は満月だ。金とも銀ともいえない輝きが空に懸かっている。
 帰り支度を終えた小夜子が、軽音部室の真ん中で、凛とした声をあげた。
「家のそばまで送ってください」
 文徳《ふみのり》先輩が動きを止めて、小夜子を見た。小夜子は繰り返した。
【家のそばまで送ってもらいたいんです。煥さんにお願いします】
 文徳先輩は突然、めまいに襲われたようにふらついて、煥《あきら》先輩が慌てて支えた。文徳先輩はすぐに体勢を立て直して、煥先輩に告げた。
「鈴蘭さんと小夜子さんを送っていけ」
「兄貴は?」
「おれは予定どおり、楽器店に寄ってから帰る。ギターの弦のストックが切れた」
 亜美先輩も文徳先輩と一緒に楽器店に行くらしい。煥先輩が何ともいえない表情で無言の訴えを牛富先輩と雄先輩に送って、二人もこっちに来てくれることになった。
 文徳先輩と亜美先輩が並んで歩いていく。
 牛富先輩が苦笑いでつぶやいた。
「ひでぇやつだな、文徳は。いつも見せ付けやがって」
 わたしは大柄な牛富先輩を見上げた。いかつい体型だけれど、いつもニコニコしているから雰囲気が柔らかくて、つぶらな目はとても優しい。
「牛富先輩、彼女さんいるんですよね?」
「いるんだけど、大っぴらに会えない。緋炎《ひえん》に目を付けられたら危険だからな」
「雄先輩も同じ事情だって聞きました」
「そう、あいつも同じ。鈴蘭ちゃんも巻き込まれた側だから、おれらの気苦労や心配も肌で感じてるよな」
 小夜子のことが気になった。今、瑪都流《バァトル》と行動している小夜子も、どこかで目を付けられてしまうんじゃない?
「牛富先輩、暴走族の抗争に関係のない生徒と一緒に下校することって、普段ありますか?」
「ないよ。自分の身を自分で守れるくらいのやつじゃなきゃ、特別に親しく接したりはしない」
「じゃあ、小夜子はどうして?」
「おかしいよな。おれもたった今、何で彼女まで一緒に帰ってるのか、急に疑問が起こったんだ。女子ひとりで夜道を下校するのが少々危険だとしても、おれたちと一緒にいるほうが確実に危険だ。文徳がこんな初歩的な判断ミスをするなんて、どうしたんだろう?」
「疲れてたんでしょうか? お忙しそうですもんね」
 文徳先輩を気遣う言葉を吐きながら、わたしの胸は急激に冷たくなった。
 今はわたしだけが瑪都流の特別な存在だ。煥先輩に護衛されている。でも、もしも小夜子がわたしと同じ立場になったら?
 小夜子は正直だ。まっすぐに煥先輩に好意を示している。煥先輩は戸惑っているけど、もしかしたら、いずれ小夜子を受け入れるかもしれない。
 そうしたら、わたしの居場所は? わたしは誰に守ってもらえばいいの?
 わたしの視線の先で、小夜子はカチカチに緊張しながら煥先輩に話しかけている。ちょっと離れて歩く二人の後ろ姿は、ずるいくらいに絵になる。
 小夜子の家は嫦娥《じょうが》公園のそばらしい。玉宮駅の北口広場で、小夜子と別れた。
「今日は本当に、ありがとうございました! 練習を見学させていただいて、ここまで送っていただいて、もう、感無量です! 次のライヴも絶対に聴きに行きますね! お疲れさまでした!」
 小夜子はピョンと頭を下げて、わたしにチョコンと手を振って、煥先輩に微笑みかけて、嫦娥公園のほうへ帰っていった。
 雄先輩が、煥先輩に訊いた。
「あの子と付き合うの? すごい勢いで惚れられてるじゃん」
 煥先輩は眉間にしわを寄せた。
「興味ねぇよ」
 わたしの家は山手のほうへ上ったところだ。牛富先輩と雄先輩とは、ここで解散することにした。
 煥先輩が無言でわたしのカバンを持った。小夜子のカバンは持ってあげてなかった。つい比べて、小さな優越感を覚えてしまう自分が悲しい。
 玉宮駅前の十九時過ぎの人通りは、わりと多い。中学生、高校生、サラリーマン、塾や習い事の小学生、小さな子ども連れのキャリアウーマン。
 視線の痛みに、不意に気付いた。煥先輩に向けられる視線はすべて、ひどく尖っている。
 少し長めの銀色の髪は目立つ。両耳のリングのピアスとも相まって、不良少年だと、一瞬で判別される。
 煥先輩はカッターシャツのボタンを上まで留めていない。赤いネクタイは緩めてある。ブレザーの前を開けている。でも、動きやすさを重視しているからか、ズボンと靴の履き方はきちんとしている。
 これくらいの緩さなら、長江先輩の服装だって大差ない。なのに、印象はだいぶ違う。長江先輩の場合、チャラく着崩しているという印象だ。怖い不良という雰囲気は少しもない。
 煥先輩に、好奇心と恐怖心の視線が遠慮なく刺さる。煥先輩は誰とも視線を合わせずに、ただ前を向いている。
 集団の中で自分の存在は異質だと、お嬢さま扱いのわたしも、体験してきたつもりだった。甘かったんだ。煥先輩の孤立感は、わたしが知っている程度のものではない。
 煥先輩が唐突に足を止めた。
「あいつ」
 道の反対側から長江先輩が歩いてきた。
「おっや~、こんなとこで会うとは奇遇だね。お二人さんはデート?」
「護衛だ。隣町の族に目を付けられてる」
「あー、うん、知ってるよ。緋炎だっけ? 海ちゃんも迷惑してるって言ってたね。ほら、大都高校はお坊ちゃん進学校だから、いいカモにされるらしくて。当然、海ちゃんは返り討ちにしてるけどね」
 海牙さんの名前を出されると、背筋が寒くなる。あの人は怖い。
「返り討ちか。あの強さなら、そうだろうな。海牙もこのへんにいるのか?」
「たぶんいるよ~。嫦娥公園で話すことにしてるからね。きみらも一緒に来てよ」
 昨日の夜、平井さんが予言した。わたしたちは嫦娥公園で話をすることになる。それが今なのかもしれない。
「行かなければいけないんですか? わたしは、考えがまとまりません。混乱していて、ちゃんと話せないです」
 長江先輩が困り顔で笑った。
「二人を連れて来てって言われてんだよね。何でおれがその役目か、わかる? おれ、強制的にきみらを連れてくこともできるの」
「でも、先輩のチカラは、わたしたちには効かないんじゃないですか?」
「号令《コマンド》はね、駅前にいるほぼ全員に効くんだよ。人海戦術で、きみらを拘束できるの。でもさ~、そういうこと、やりたくないんだわ。無関係の人を巻き込むって、いくら何でも心が痛むんだよね~」
 長江先輩が両腕を広げた。武器を持っていない、と示している。
 煥先輩がチラッとわたしを振り返った。わたしはうなずいた。
「嫦娥公園に行きます」
 長江先輩はホッとしたように腕を下ろした。
「んじゃ、行こっか」
 こぢんまりとした嫦娥公園の真ん中には、丸い池があって、その真ん中の小島に月の女神をまつる祠《ほこら》がある。
 ツツジとコデマリが白い花をビッシリと咲かせている。夜風はかすかに甘く香る。
 外灯の下のベンチに、平井さんがいた。平井さんはわたしたちの姿を認めて、穏やかに微笑んだ。
「こんばんは、安豊寺鈴蘭さん、伊呂波《いろは》煥くん。きみたちも呼び出されたんだね」
「平井さん、こんばんは。平井さんも、長江先輩たちに呼び出された側なんですか?」
 ベンチの背後の薄闇が動いた。グレーの詰襟にスリムなスタイル。海牙さんだ。
「ぼくたちが平井さんを呼び出しました。話をしたかったので」
 煥先輩が、立ち位置を少し変えた。わたしを海牙さんからかばう位置だ。わたしの隣で、長江先輩が苦笑いした。
「あっきー、殺気立たないでよ。まずは話そうって場面でしょ? ねえ、平井のおっちゃん?」
 平井さんは、ジャケットの胸ポケットに差したツツジのつぼみを抜き取って、手のひらに載せた。つぼみは白くほのかに光りながら、ふわりと宙に浮き上がった。
 わたしは息を呑んだ。煥先輩が体を硬くするのがわかった。
 ベンチに掛けた平井さんは悠然としている。簡素な丸木のベンチが玉座に見えた。
「きみたちの心には多くの疑問が渦巻いている。謎に囲まれていては、不安だろう? すべてを話してあげたいのだが、まだ時が熟していないようだ。きみたちはもう少し、互いを知る必要がある」
 平井さんの視線の先にあるのはツツジの花なのに、わたしは、平井さんの目に射抜かれているという錯覚に陥《おちい》った。体が動かない。
 煥先輩が半歩、進み出た。
「あんたはどこまで知ってんだ? 全部か?」
「そう、全部だよ。せっかくだから、一つだけ疑問に答えよう。きみたちが抱える疑問はそれぞれ重要だが、伊呂波煥くん、きみが最も強くいだく疑問こそが最もクリティカルだ。きみの疑問を解いてみようか」
 平井さんはわたしたちの心を読んでいる。わたしは恥ずかしくなった。この胸にある疑問も不安も、それ以外の感情も全部、みっともなくてみじめだから。
 煥先輩が低い声で言った。
「運命を変えたり未来をねじ曲げたりすること。宝珠は、そんなデカい願いさえ叶えるものなのか?」
 平井さんはうなずいた。
「結論から言うと、肯定だよ。宝珠の種類にもよるがね。ああ、宝珠には種類があり、ランクがあるのだよ。例えば、四獣珠はランクの高い宝珠だ。陰陽を司る『二極珠』に比べればやや劣るが、『十二支珠』などよりはずっとチカラが強い」
 その話は祖母から聞いたことがある。
 中国大陸由来の宝珠には、種類とランクがある。
 陰陽の二極珠。四聖獣の四獣珠。五行説の五行珠。暦に関わる十干珠と十二支珠。星の巡りに関わる二十八宿珠。
 引き合う宝珠の母数が増えるほどにランクが下がって、発現できるチカラが弱くなる。単純計算をすれば、二極珠は大いなるチカラを二分の一ずつ、四獣珠は四分の一ずつ担う格好だ。預かり手の能力も、宝珠のランクに相応した強さが与えられる。
 平井さんがゆったりと話を再開した。
「このあたりの話は、『四獣聖珠秘録』のうち『始源』に記録されている。さて、疑問の解決に戻ろうか。宝珠に願いを掛けて未来を変えることは、大きなチカラを必要とする事象だ。当然、差し出す代償も大きくなる。最も価値の高い代償とは何か、わかるかね?」
 長江先輩が軽く右手を挙げた。
「命、でしょ?」
「正解だよ、長江理仁くん。きみは何度も目撃してきたのだったね」
 一瞬、長江先輩の笑みが歪んだ。
「おれの事情なんか、どーでもいいしね~。疑問の解決とやら、進めちゃいましょうよ」
「では、答えを提示しよう。宝珠に願いを掛けて未来を創り変えることができるか。その命題を可能とする要件は二つだ。宝珠のランクがそれ相応であること。それ相応の代償を差し出すこと。可能なのだよ。だから今こうして、我々は病んだ一枝の上に存在している」
 海牙さんが、波打つ髪を掻き上げた。
「例えば、四獣珠のランクなら可能なんですね? いくつもの命を代償にすれば、未来を変えられる。ぼくたちが予知夢のように見た未来のあの場面こそが、宝珠に願いを掛けたシーンなんですね?」
 平井さんの手のひらの上で、白いツツジのつぼみが、はらりと花開いた。平井さんはツツジを胸に差した。
「もう一つ付け加えておこう。宝珠は本質的に、命を奪うことを嫌う。四獣珠のそのツルギの姿は、本質的ではない。ツルギとして働くことを悲しんでいる。それを覚えておいてもらいたい」
 ポーチの中の青獣珠が、ああ、と嘆いた。わたしは二度、ツルギで人を刺した。その瞬間の青獣珠の悲鳴を、手のひらが覚えている。
 ごめんね。イヤだったんだね。
 海牙さんが自分の手のひらを見た。わたしと同じ感触を思い出しているのかもしれない。海牙さんはつぶやいた。
「一枝の病という例えに従うなら、巻き戻しは、発作のようなものですか。発作の原因は、ツルギがこうむるショック症状」
 平井さんが少し笑った。
「順応しようと必死だね、阿里海牙くん。三次元空間における物理学とは違うチカラが作用している。それをどうにか受け入れようとして、頭も心もフル回転だ」
 海牙さんは、かたくなな笑みを貼り付けた顔を背けた。その隣で、長江先輩がポケットに手を突っ込んだ。
「つまるところ、今はいろいろ無茶な状況ってわけね。さっさとクリアしなきゃヤバいってことでさ~、次のコマに進めよっか?」
 それはわたしにかけられた言葉だった。わたしは長江先輩に顔を向けた。
 朱いものが、ひらめいた。
 朱獣珠の刃だと気付いた瞬間、わたしの胸に熱が突き立てられた。
 仰向けに倒れながら、血が噴き出すのが見えた。ツルギを手にした長江先輩が血を浴びる。
 刺されたんだ。
 わたしののどは叫ぼうとした。恐怖と激痛。息を吸い込む。ゴポリと肺が異音をたてる。胸の傷から、血まみれの空気が逃げる。
「鈴蘭ッ!」
 煥先輩に抱き起された。慌てた顔をしている。
 ちゃんと見える。ちゃんと聞こえる。焼け付く痛みは意識を奪うほどではなくて、痛いのに、苦しいのに、目も耳もハッキリしている。
「心臓は無事です。肺が裂けてますね。酸欠で脳が停止するまで、このままです。最も苦しい死に方の一つですよ。だから、ぼくがやると言ったのに」
 海牙さんの冷淡な声に絶望する。
 血の匂いがする。ままならない呼吸全部が、血の匂いに染まっている。
「おい、鈴蘭! 聞こえるか!」
 クリスタルのような声が、わたしを呼ぶ。わたしの眼前で、金色のまなざしが真剣にきらめいている。
「チカラを使え。自分の傷を治せ」
 そっか。わたし、傷を治せる。でも、自分のはやったことないんです。自分の傷は、痛みを移せないから。
 肺が壊れた音をたてている。苦しい苦しい苦しい。
 血の匂いに溺れてしまう。煥先輩にすがり付きたいのに、体が冷えて震えて、何もできない。
 助けて。煥先輩、助けて。
「オレを使え。オレの体に痛みを移せば、治せるはずだろ!」
 やったことない。できるのかわからない。でも、ちゃんと治るのなら。この苦痛が消えてくれるのなら。
 血の赤じゃなくて、光の青を思い出す。痛みを、いつもはわたしが引き受けるけれど、今は煥先輩が引き受けてくれるから。
 痛みを。
 だけど、どうすればいいの? 息が続かない。痛みを吸い出すイメージなんです。呼吸に連動させるんです。それを、ねえ、今はどうすればいいの?
 吸い出すんじゃなくて、行方不明になる呼吸の道筋で、痛みをどこにもやれなくて、どうしようもなくて。
 わたしはあえぐ。指先の震えが止まらない。意識に靄《もや》がかかり始める。
「鈴蘭!」
 わたしを抱きしめる腕を感じる。でも、同期できない。痛みを引き受けるときの、痛みを吸い出すときの、あの感覚が遠い。
 咳き込んだ瞬間、口と胸から血があふれた。息を、必死で吸う。
 煥先輩がハッと両目を見張った。
「逆だ。吸い出すんじゃなくて、痛みを吐き出せ。オレが……」
 煥先輩がわたしの痛みを吸い出すから。
 唇が重なった。
 わたしの震える息が、煥先輩の口へと流れ込んだ。そして流れが生まれた。
 脈打つ痛みを、青い光が絡め取る。光は息と同じ道を通って吐き出される。唇を伝って、息と同じようにのどを通して、煥先輩がわたしの痛みを吸い込む。
 煥先輩が体をこわばらせた。わたしを抱く腕に力が込められる。
 傷が癒えていく。煥先輩に抱きしめられている。煥先輩とキスしている。煥先輩がわたしを救ってくれる。あの苦痛を、迷いもなく引き受けてくれる。
 いつの間にか、わたしは目を閉じていた。体の感覚が戻ってくる。煥先輩の体温が優しい。煥先輩の唇は、とろけそうに柔らかい。
 わたし、煥先輩とキスをしている。
 すべての傷がふさがったとき、わたしの中から青い光が消えて、煥先輩が体の力を抜いた。唇がそっと離れた。
「うまくいったのか?」
 ひそめられた眉。切れ長な目尻に涙がにじんでいる。大きすぎる痛みをこらえたせいだ。声ひとつあげずに、煥先輩は耐えてくれた。
「煥先輩……」
 わたしは何を言おうとしたんだろう? お礼? それとも。
 続きを阻むように、冷淡な声が降ってきた。
「傷を治すチカラ、癒傷《ナース》ですか。致死的な傷さえふさいでしまうとは驚異的です。それにしても、王子さまのキスでお姫さまが生き返るなんてね。まるでおとぎ話だ」
 煥先輩がわたしの体を離した。立ち上がって身構えようとして、ふらつく。わたしの代わりに痛んだ胸を押さえている。
 海牙さんが右手を振り上げた。黒い刃に月の光が映り込む。
「煥くんは違反者じゃないでしょうけどね」
 ツルギの姿の玄獣珠が、煥先輩の胸を貫いた。
 満月の下の公園の景色が掻き消えた。


座標
E(嫦娥公園内,4月17日19:49,伊呂波煥)

D(学園屋上,4月17日13:14,阿里海牙・長江理仁)
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From : princess-blue-moon@**.**
To : 自分_Akira_Iroha
Sub : おはようございます
      20XX/4/17 06:54
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瑪都流の煥さま

おはようございます。
よく眠れましたか?

わたしは、ちょっと寝不足です。
昨日のライヴのことを思い出して、
ドキドキして、寝付けませんでした。

瑪都流のホームページで、
曲の一部がダウンロードできるんですね。
「着メロや目覚ましにどうぞ」って。

ダウンロードさせてもらいました。

青い月よ消えないで
この胸の叫びは飼い慣らせないから

この歌詞、大好きなんです。

それでは、また。

ブルームーンより、願いを込めて。
歌うあなたに、幸運な未来を。

○.:*゚Blue Moon*゚:.○
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座標
A(鈴蘭自宅,4月15日6:40,夢中流血)
B(下校途中,4月15日19:14,緋炎狂犬)
C(嫦娥公園裏,4月16日21:21,鹿山亜美)
D(学園屋上,4月17日13:14,阿里海牙・長江理仁)
E(嫦娥公園内,4月17日19:49,伊呂波煥)

零幕:学園皇子
[4月15日朝→4月15日放課後]

一幕:時流異変
[4月15日放課後→座標A→4月15日放課後]

二幕:路上奏歌
[4月16日朝→座標B]

三幕:争士到来
[4月16日夜→座標C]

四幕:屋上戦線
[4月16日夜→4月17日昼休み]

五幕:孤狼信念
[4月17日放課後→座標D]