わたしはへたり込んだ。
「どうして……」
 海牙さんがツルギを振るう理由はわかる。わたしを刺せば役割を果たせると考えているからだ。そうじゃないとしても、さっさと仮説を検証するには、疑わしい人を殺してみるのが手っ取り早い。わたしもそれは理解している。
 煥先輩がわたしをかばう理由こそ、わからない。海牙さんは十分に説明してくれたと思う。海牙さんがわたしを疑うのも、ちゃんと筋が通っている。それに、煥先輩、わたしのこと嫌いでしょう?
「待てって言ってんだよ!」
 煥先輩が海牙さんを蹴り飛ばした。海牙さんは、くるりと宙返りして降り立つ。煥先輩との間に距離ができる。
「さすが、悪魔と恐れられるだけありますね」
 煥先輩は両腕を前に突き出した。手のひらの正面の空間が、まばゆい白に光る。光は巨大な正六角形に広がった。
「突っ込んでくるなよ。焼け焦げるぜ」
「これが噂に聞く障壁《ガード》ですか。なぜそこまでして彼女をかばうんです?」
「話の運びに納得がいかねぇからだ」
 白く透ける光の壁の向こうで、海牙さんが、ふぅっと大きく息をついた。右手のツルギから刃が掻き消える。
「銀髪の悪魔は、意外と平和主義者なんですね」
「普通だろ。いきなり斬り掛かるあんたのほうが変わってる」
「変わり者なのは自覚していますよ。仕方ないな。出直します。きみに出された三つの宿題、調べておきますよ」
「宿題?」
「違反者の願いの内容、禁忌と巻き戻しの関係、ツルギが巻き戻しの要因になる理由。その疑問が解ければ、きみも納得するんでしょう?」
 煥先輩はうなずいて、質問を一つ付け加えた。
「兄貴の結婚式の未来、どの程度覚えてる?」
「おおよその印象、といった程度です」
「理仁は?」
「右に同じ」
 みんな同じくらいの覚え方なんだ。わたしもそう。血の赤さだけはハッキリ覚えている。倒れていた新郎新婦の正体には、後になって気付いた。
 煥先輩が低い声で訊いた。
「自分が殺された場面も覚えてるか?」
「おそらく」
「おれも、たぶん」
「鈴蘭は?」
 わたしは息を呑む。
「自分が殺された場面?」
 わたしは、殺戮《さつりく》の場面を外から見ていた気がする。でも、あの願いを内側から聞いていた気もする。あのとき、わたしはどこにいたの?
 海牙さんが目を細めた。
「ツルギを振るう人物の姿、見てないんですか?」
「えっと……」
「ぼくは黒髪の女性だと思いましたよ。皆さんも見たでしょう?」
 沈黙。
 チャイムが鳴った。
 海牙さんは、帰ります、と言ってきびすを返した。ヒラリとフェンスを越えて、飛び降りていく。
 長江先輩が大げさに腕を広げた。
【あ~ぁ、そんな目立つことやっちゃって。校庭の皆さ~ん! 海ちゃんの姿を見ても、見なかったことにして! 全部、忘れてね!】
 煥先輩が障壁《ガード》を消した。長江先輩がレジャーシートを畳む。わたしは呆然と座り込んだまま、頭が働かない。
 長江先輩がレジャーシートを抱えて、屋上の出入口のドアを開けた。
「お二人さん、まだここにいる? 好きに使ってくれていいよ。屋上に近寄るなって、全校に号令《コマンド》してあるから。んじゃね」
 手を振って、長江先輩は校舎に入っていった。
 煥先輩は、ぶっきらぼうにわたしに言った。
「授業、遅れるぞ。さっさと教室に帰れ」
 わたしはのろのろと立ち上がった。視界の高さが変わると、赤い色が見えた。
「煥先輩、ケガしてます。左の頬」
 一文字の切り傷だ。煥先輩は傷に触れた。長い指の先に付いた血をじっと見て、ぺろりとなめる。
 わたしはドキッとした。
 煥先輩の舌も唇も柔らかそうだった。少し節っぽい指の形がキレイだ。えぐみがあって塩辛い血の味は知っているのに、煥先輩の血は、なんだか甘いもののように見えた。
 色気という言葉の意味がわかった気がする。
 ドギマギするわたしには目をくれずに、煥先輩はつぶやいた。
「あいつ、なんか必死だったな。本気で斬り掛かってきやがった」
 海牙さんを心配しているみたいだ、と思った。煥先輩って、全然笑わないけれど、本当はとても優しい人なのかもしれない。
「煥先輩、どうしてわたしをかばったんですか?」
「そうすると決めたから」
「でも」
「刺されてみたいなら、オレが刺してやる。その覚悟が決まらねぇなら、無理強いしねえ。それだけだ」
 わたしが違反者だと思っているのか、いないのか。仮にわたしが違反者だとしても、関係ないのか。
 煥先輩の言葉はシンプルすぎて、何を考えているのかわからない。
「傷、治します」
「いらねえ。このくらい、すぐ治る」
「治させてください。ライヴのとき、お客さんに心配されますよ」
 煥先輩はうんざりした表情で、わたしのほうに左頬を向けた。
 わたしは煥先輩の左頬に手をかざした。吐き切った息を、ゆっくりと吸う。淡い青色の光が手のひらから染み出して、傷の痛みを絡めて吸い取っていく。
 チリッと、わたしの左頬に熱が走った。ケガをしたことのない場所に、感じたことのない痛みがある。
 一度、息を吐く。再び息を吸う。
 スーッと、痛みが引いた。煥先輩の頬に、もう傷はない。わたしは手を下ろした。
「痛みを吸い出すイメージって言ってたか?」
「あ、はい」
「今、なんとなくわかった。呼吸が同期する感じだった」
 煥先輩の切れ長な目を覆うまつげは長くて色が薄くて、キラキラしている。横顔がとてもキレイだ。額から鼻筋にかけての線はシャープで、薄い唇と細めのあごがどこか幼い印象で。
 どうしよう。胸がドキドキして痛い。
 わたしは煥先輩に見惚れてしまった。胸をときめかせてしまった。文徳先輩に失恋した傷をごまかすみたいに。
「わたし、教室に戻ります」
 つぶやいて、逃げ出す。
「鈴蘭」
 呼び止められて振り返ると、煥先輩はこっちを見ていなかった。
「何ですか?」
「……ありがとう」
 お礼なんて、不意打ちすぎる。わたしはあせって、話をそらした。
「ほ、放課後、かわいい子を紹介しますね。煥先輩のこと好きなんだって」
 煥先輩がリアクションする前に、わたしはドアに飛び込んだ。
 授業開始ギリギリに教室に戻った。小夜子が後ろからわたしをつついた。
「鈴蘭、顔色悪いよ。昼休み、どうしてたの?」
「ちょっとね」
「保健室、行ってきたら?」
「んー、ただの寝不足だから大丈夫」
 嘘だって、ばれたのかもしれない。小夜子は大げさに目を丸くしてみせて、冗談っぽく言った。
「寝不足って? もしかして彼氏?」
「彼氏だったらいいけど。予習と課題が終わらなくて」
「丁寧にやってるみたいだもんね。午前中の授業で、チラッと見えたんだけど」
「要領が悪いだけだよ」
 先生が教室に入ってきて、会話を中断する。
 小夜子との何でもない話のおかげで、少し気分がまぎれた。小夜子は美人だし、いい子だ。煥先輩に紹介しなきゃ。
 授業が進んでいく。わたしは集中しようとしてみたけれど、うまくいかなかった。