メイドさんや門衛さんに見送られて家を出た。煥先輩が待ってくれていた。
「おはようございます、煥先輩」
 煥先輩はうなずいて、わたしのカバンを持った。
 歩き出して少し経ったころ、煥先輩はささやくように言った。
「一つ、訊いておく」
「何ですか?」
「あんたは、兄貴をどうしたいんだ?」
「どうしたい、って?」
 煥先輩は黙っている。「兄貴とどうなりたい?」じゃなくて、「兄貴をどうしたい?」という訊き方が冷たい。
 宝珠に願いを掛けて、相応の代償を差し出せば、どんなことでも現実になる。
「わたしなんでしょうか?」
 失恋だと、もう理解している。わたしはこれからこの恋を枯らすことになる。
 それとも、わたし、やっぱりどうしてもあきらめきれないの? 血まみれの結婚式の未来を引き起こすのはわたしなの?
 煥先輩が足を止めた。わたしも立ち止まる。朝の風が、そっと吹いて過ぎた。煥先輩の銀色の髪が柔らかそうになびいて、金色の瞳がのぞいた。
「青獣珠に願ったのか? 何かを代償に差し出すと言った記憶があるか?」
「そんなことをした記憶はありません。過去の記憶は、ないです」
 でも、記憶が消えた可能性もある。未来でそれを願う可能性もある。わたしの記憶なんて、曖昧なものでしかない。海牙さんがやってみせたみたいな、誰の目にも明らかな検証は、わたしにはできそうにない。
 だけど。
「その言葉を信じる」
「煥先輩、どうして?」
「直感」
 煥先輩は歩き出した。立ち尽くすわたしを振り返って、あごをしゃくって、行くぞと告げる。
 でも煥先輩はわたしを嫌っているんでしょう? そう訊いてしまいたい衝動に駆られた。煥先輩にとって、わたしを信じたり護衛したりすることは、きっと苦しいに違いない。
 わたしは、訊けなかった。あんたなんか嫌いだとハッキリ突き放されてしまったら、自分がどれだけ傷付くか、想像するのも怖かった。わたしはずるくて臆病だ。


 登校してしばらくすると、ホームルームのチャイムが鳴って、担任の先生が小夜子を紹介した。
 前の席の友達がわたしを振り返った。
「玉宮さんって、ちょっと鈴蘭と似てるね」
「似てる? そう?」
「髪がキレイなとことか、色白なとことか」
「玉宮さんのほうがよっぽど美人だよ」
「こら、美少女鈴蘭がそんなこと言うな。小柄で巨乳は最強よ、鈴蘭。さわり心地バツグンのマシュマロ乳でしょ」
 昨日の夜、煥先輩の好みのタイプって言われたことを思い出す。本当かどうかわからないけど。
 でも、もし本当だったら? この胸、かなりコンプレックスなんだけど、煥先輩ってこういうの好きなの? さわってみたいとか思うのかな? あんなクールな人が?
 ホームルームが終わって、わたしは後ろからツンツンつつかれた。振り返ると、小夜子が微笑んでいる。
「やっぱり、髪、キレイね!」
「あ、ありがと」
「わたしのことは小夜子でいいから。鈴蘭でいいよね?」
「うん、よろしく」
 記憶をたどる。小夜子と何を話したっけ? 髪の話をして、瑪都流のライヴの話をした。
「ねえ、昨日、瑪都流のライヴ聴いてた?」
「うん、大好きなの! 昨日、鈴蘭もいたよね!」
「聴いてたよ。ファン歴はまだ浅いんだけどね」
「わたしも同じ。本当にここ数日のことなの。でも、煥さんに一目惚れしちゃった。歌声も、たった一回で大好きになった」
 小夜子の目が輝いている。
「煥先輩のこと、紹介しようか?」
 提案した後、自分で驚いた。わたし、何を勝手なこと言っているの? わたしは瑪都流の中で何の権限もないのに。
 小夜子が、ぱっちりした目を見張った。
「煥さんと知り合いなの? 紹介してくれるって、ほんと?」
「う、うん……大丈夫だと思う」
「じゃあ、お願い! 迷惑はかけないから! ちょっとだけ、煥さんと直接お話したいの!」
 小夜子は、拝むみたいに両手を合わせた。くるくる変わる表情がかわいい。煥先輩も、小夜子のことをかわいいって思うよね。
 胸がチクッとする。無理やり笑顔をつくる。
「放課後、瑪都流は軽音部の部室で練習してるの。部外者は近寄っちゃダメなんだけど、小夜子のこと、頼んでみるね」
「ありがと!」
 わたしは三日月のアミュレットに触れた。放課後まで時間がちゃんと流れますように、と願った。