煥先輩がしびれを切らしたように言った。
「そろそろ本題に入れ。話があるから呼び出したんだろう?」
「ん~、もうちょっと待って。海ちゃんが来てから話そかなと……って、来たじゃん。ナイスタイミング」
長江先輩が指差した。屋上の出入口とは全然違う方向だ。本館の隣に建つ学習館のほう。長江先輩の指先に従ってそっちを見て、わたしも煥先輩も驚いて声をあげた。
学習館最上階の天文観測所のドームの上に、グレーの詰襟の海牙さんがいる。海牙さんはちょっと声を張り上げた。
「どうも、遅くなりました! そっちに行きますから、あと十秒ほど待ってください!」
イヤな予感がした。海牙さんの位置からこっちの屋上まで、十メートル以上あるはずだ。ちょっとジャンプしてまたげる距離ではない。
「無茶だろ」
煥先輩も同じことを思ったようで、そうつぶやくのが聞こえた。
海牙さんは短い助走をして、跳んだ。わたしは悲鳴を呑み込んだ。緩い弧を描いて海牙さんが跳ぶ。
無茶なチャレンジなんかじゃなかった。
海牙さんは悠々と、こちらの屋上に着地した。身長よりも高いフェンスをするすると上って、フェンスのてっぺんから跳んで、音もなく降り立つ。
「お待たせしたようで、すみません。途中でちょっと道に迷ってしまって」
海牙さんは駆けてきた。ゆっくり走っているように見えたのに、あっという間に距離が縮む。一歩で進む距離が異様に大きいんだ。
煥先輩が眉をひそめた。
「あんたの運動能力、どうなってんだ?」
海牙さんは、ウェーブした髪を掻き上げた。
「運動能力そのものは普通程度ですよ。煥くんみたいに高いわけじゃない。ぼくは、体の使い方に無駄がないだけです」
「それがあんたの能力ってことか?」
「そういうことです。三次元空間における物理法則に従うすべての事象が、視界に数値化される。『力学《フィジックス》』という能力です。数値をもとにトレーニングして、無駄を省く動きを身に付けました」
海牙さんの動きは一つひとつがなめらかで、指先まで洗練されている。計算し尽された動きなんだ。
煥先輩は威嚇《いかく》するように両目を細めた。
「オレの自己紹介は必要ねぇんだろ?」
「そうですね。失礼ながら、調べさせてもらったので」
「礼儀なんぞ何とも思ってねぇくせに」
海牙さんが肩をすくめる。
長江先輩が、手にしたトートバッグから、革の装丁の本を取り出した。
「はいはい皆さん、ちゅうも~く! これね、平井のおっちゃんから借りた本。平井のおっちゃん、昨日の夜に会ったでしょ? おれと海ちゃんと一緒にいた人。平井鉄真《ひらい・てっしん》っていって、ちょっと普通じゃなくすごい人なんだけどさ」
深い色をした本の表紙には、『四獣聖珠秘録《しじゅうせいしゅひろく》』というタイトルが金箔で印字されている。
「おれと海ちゃんは全部読んだよ。四獣珠の由来とか伝説とか、預かり手の役割とか禁忌とか、今おれらに必要な情報が書かれてる。鈴蘭ちゃんとあっきーも読むでしょ?」
長江先輩はページをめくった。わたしは思わず悲鳴をあげた。
「何これ、漢字だけの本!」
「うん、白文の漢文だけの本。序文によると、江戸時代に編集されたらしいね~。当時の学術書は漢文で執筆してたっぽい。木版印刷の紐綴じ製本ね」
長江先輩が持つ本は、和紙の紐綴じではなくて、普通の西洋的な形をした本だ。開かれたページにあるのは、当時のままの紙面、古い字体の漢字たち。
海牙さんが説明を補った。
「影印本というんですよ。古い本をページごとに写真撮影して印刷する。書き写すわけじゃないので、誤植が生じません。まあ、古文漢文に通じていないと、まったくもって読めないけどね」
「海牙さんと長江先輩は読めるんですね?」
「ぼくはけっこう必死でしたけど、リヒちゃんはやたらスラスラと読んでました」
長江先輩は得意げに胸を張った。
「前も言ったとおり、おれ、言語系全般が得意分野なの。古文でも漢文でも外国語でも、テレパシー的な何かが頭に入ってくる感じでさ、読むと聞くは苦労しないの。しゃべるのも、なんかいけちゃう。書くのだけは別物だけどさ~」
煥先輩が疲れたような息を吐いた。
「こんなもん、オレに読めるかよ。要点だけ話せ」
「わたしもちょっと、読める自信がありません。四獣珠がツルギの形になっている理由、教えてもらえませんか?」
長江先輩が本を閉じた。
「ツルギってのは何のためにあるでしょ~?」
「何のためって」
「リンゴ剥《む》くため?」
煥先輩が答えた。
「人を刺したり斬ったりするため。要は、殺すためだ」
「あっきー、正解! ってことで、四獣珠がツルギの形になったのは、殺すためなんだよね」
物騒なことを、長江先輩はサラリと言った。
煥先輩がわたしをひたと見つめる。
「人を刺すことで、時間が巻き戻る。鈴蘭は二回、人を刺して巻き戻しを起こした」
長江先輩と海牙さんがわたしを見た。朱い瞳と緑の瞳。そして、煥先輩の金色の瞳。わたしは顔を伏せた。居たたまれない。
「そろそろ本題に入れ。話があるから呼び出したんだろう?」
「ん~、もうちょっと待って。海ちゃんが来てから話そかなと……って、来たじゃん。ナイスタイミング」
長江先輩が指差した。屋上の出入口とは全然違う方向だ。本館の隣に建つ学習館のほう。長江先輩の指先に従ってそっちを見て、わたしも煥先輩も驚いて声をあげた。
学習館最上階の天文観測所のドームの上に、グレーの詰襟の海牙さんがいる。海牙さんはちょっと声を張り上げた。
「どうも、遅くなりました! そっちに行きますから、あと十秒ほど待ってください!」
イヤな予感がした。海牙さんの位置からこっちの屋上まで、十メートル以上あるはずだ。ちょっとジャンプしてまたげる距離ではない。
「無茶だろ」
煥先輩も同じことを思ったようで、そうつぶやくのが聞こえた。
海牙さんは短い助走をして、跳んだ。わたしは悲鳴を呑み込んだ。緩い弧を描いて海牙さんが跳ぶ。
無茶なチャレンジなんかじゃなかった。
海牙さんは悠々と、こちらの屋上に着地した。身長よりも高いフェンスをするすると上って、フェンスのてっぺんから跳んで、音もなく降り立つ。
「お待たせしたようで、すみません。途中でちょっと道に迷ってしまって」
海牙さんは駆けてきた。ゆっくり走っているように見えたのに、あっという間に距離が縮む。一歩で進む距離が異様に大きいんだ。
煥先輩が眉をひそめた。
「あんたの運動能力、どうなってんだ?」
海牙さんは、ウェーブした髪を掻き上げた。
「運動能力そのものは普通程度ですよ。煥くんみたいに高いわけじゃない。ぼくは、体の使い方に無駄がないだけです」
「それがあんたの能力ってことか?」
「そういうことです。三次元空間における物理法則に従うすべての事象が、視界に数値化される。『力学《フィジックス》』という能力です。数値をもとにトレーニングして、無駄を省く動きを身に付けました」
海牙さんの動きは一つひとつがなめらかで、指先まで洗練されている。計算し尽された動きなんだ。
煥先輩は威嚇《いかく》するように両目を細めた。
「オレの自己紹介は必要ねぇんだろ?」
「そうですね。失礼ながら、調べさせてもらったので」
「礼儀なんぞ何とも思ってねぇくせに」
海牙さんが肩をすくめる。
長江先輩が、手にしたトートバッグから、革の装丁の本を取り出した。
「はいはい皆さん、ちゅうも~く! これね、平井のおっちゃんから借りた本。平井のおっちゃん、昨日の夜に会ったでしょ? おれと海ちゃんと一緒にいた人。平井鉄真《ひらい・てっしん》っていって、ちょっと普通じゃなくすごい人なんだけどさ」
深い色をした本の表紙には、『四獣聖珠秘録《しじゅうせいしゅひろく》』というタイトルが金箔で印字されている。
「おれと海ちゃんは全部読んだよ。四獣珠の由来とか伝説とか、預かり手の役割とか禁忌とか、今おれらに必要な情報が書かれてる。鈴蘭ちゃんとあっきーも読むでしょ?」
長江先輩はページをめくった。わたしは思わず悲鳴をあげた。
「何これ、漢字だけの本!」
「うん、白文の漢文だけの本。序文によると、江戸時代に編集されたらしいね~。当時の学術書は漢文で執筆してたっぽい。木版印刷の紐綴じ製本ね」
長江先輩が持つ本は、和紙の紐綴じではなくて、普通の西洋的な形をした本だ。開かれたページにあるのは、当時のままの紙面、古い字体の漢字たち。
海牙さんが説明を補った。
「影印本というんですよ。古い本をページごとに写真撮影して印刷する。書き写すわけじゃないので、誤植が生じません。まあ、古文漢文に通じていないと、まったくもって読めないけどね」
「海牙さんと長江先輩は読めるんですね?」
「ぼくはけっこう必死でしたけど、リヒちゃんはやたらスラスラと読んでました」
長江先輩は得意げに胸を張った。
「前も言ったとおり、おれ、言語系全般が得意分野なの。古文でも漢文でも外国語でも、テレパシー的な何かが頭に入ってくる感じでさ、読むと聞くは苦労しないの。しゃべるのも、なんかいけちゃう。書くのだけは別物だけどさ~」
煥先輩が疲れたような息を吐いた。
「こんなもん、オレに読めるかよ。要点だけ話せ」
「わたしもちょっと、読める自信がありません。四獣珠がツルギの形になっている理由、教えてもらえませんか?」
長江先輩が本を閉じた。
「ツルギってのは何のためにあるでしょ~?」
「何のためって」
「リンゴ剥《む》くため?」
煥先輩が答えた。
「人を刺したり斬ったりするため。要は、殺すためだ」
「あっきー、正解! ってことで、四獣珠がツルギの形になったのは、殺すためなんだよね」
物騒なことを、長江先輩はサラリと言った。
煥先輩がわたしをひたと見つめる。
「人を刺すことで、時間が巻き戻る。鈴蘭は二回、人を刺して巻き戻しを起こした」
長江先輩と海牙さんがわたしを見た。朱い瞳と緑の瞳。そして、煥先輩の金色の瞳。わたしは顔を伏せた。居たたまれない。