最初に、ぬくもりに気が付いた。自分のものじゃない体と服の匂いがする。力強い腕が、肩を抱いてくれている。
 彼が、低く笑った。
「煥《あきら》のやつ、容赦がないな。一瞬で沈めやがった」
 ブレザー越しに伝わってきた、笑いの振動。わたしは顔を上げた。文徳《ふみのり》先輩が、男くさい顔で笑っている。
 路地だ。バイクのヘッドライトがまぶしい。
 煥先輩が怪訝《けげん》な顔をしている。
「これは……」
 走ってくる足音がした。煥先輩と反対側からだ。文徳先輩が叫んだ。
「煥、飛び道具が!」
 ぶるっと頭を振った煥先輩が、わたしと文徳先輩の脇を駆け抜けた。まっすぐ突っ込んで行く。障壁《ガード》は出さない。放たれる矢は当たらないと知っているから。
 緋炎《ひえん》の学ランがボウガンを投げ捨てたときにはもう遅い。
 煥先輩のストレートパンチが学ランの頬に突き刺さる。学ランはひっくり返って動かない。煥先輩はボウガンを踏み付けて破壊する。
 文徳先輩が呆れ笑いをした。
「まったく、無茶するよ。障壁《ガード》なしで突っ込むとは」
 煥先輩が戻って来た。わたしの目を、じっと見つめながら。
「時間がまた巻き戻った」
 吐き捨てられた声に、怒りがにじんでいる。煥先輩はいきなり、わたしの腕をつかんで文徳先輩から引き離した。
「い、痛いです!」
「おい、煥!」
 煥先輩の握力はすごく強い。振りほどこうにも、ビクとも動かない。
「安豊寺、どうして刺した?」
 金色のまなざしが、射抜くように鋭く光っている。
「ど、どうしてって……」
 正しくない未来を避けるために。文徳先輩が亜美先輩と結婚しなければ、結婚式が血にまみれることもないから。
 煥先輩がわたしに顔を寄せた。キスしそうなほどの近さで、ギリギリまで絞られた声量で、素早くささやく。
「オレも兄貴も見た。いや、見るんだ。ライヴの後、公園の裏であんたが何をするのか。あんなのは許せねえ。時間が巻き戻ってよかったな。そうじゃなきゃ、あんた死んでたぜ。オレと兄貴があんたを殺してた」
「わ、わたしは、ただ……」
 あのとき、まるでお告げのようにあの夢を思い出した。何かに導かれるみたいに、刺さなきゃと思った。
 だって、青獣珠が言った。ツルギの姿になった理由は、わたしが預かり手としての役割を果たすためだ、と。因果の天秤の均衡を取り戻さなければならない、と。
 それは、正しい未来を創れという意味ではないの? 青獣珠がツルギの姿を取ったのは、刺し貫く相手がいるからでしょう?
 煥先輩がわたしを突き放して、背を向ける。
「白獣珠が時間の巻き戻しを嫌がってる。こんな時間の流れ方は正しくねぇんだ。あんたの行動は間違ってた」
 断言された。確かに、わたしも違和感を抱えている。だけど。
「理由は? わたしが正しくなかったと、どうして言い切れるんですか?」
「直感」
 それ以上の言葉を背中で拒絶して、煥先輩は赤いバイクのタイヤを破壊した。文徳先輩がわたしのカバンを拾った。
「煥は何を怒ってるんだ? また時間が巻き戻ったのか?」
「はい。明日の夜から戻ってきました」
「何がきっかけで巻き戻しが起こるんだろう?」
「それは、わたし……」
 文徳先輩の質問に答えられなかった。
 亜美先輩の存在が邪魔だった。だから刺した。わたしがやったのは、そういうことだ。煥先輩の怒りが、遅ればせながら、ガツンとわたしを殴った。
 文徳先輩はさっきの煥先輩の言葉を聞かなかった。煥先輩がわたしだけに告げたからだ。怒りの衝動に任せてわたしを攻撃することだってできたのに。
「おい、煥、鈴蘭さんのカバンを持ってやれ」
 煥先輩は面倒くさそうにうなずいた。わたしのほうをチラッとも見ない。
 路地を抜ける。住宅地の丘を上る。頭の中がぐちゃぐちゃしている。
「文徳先輩、一つ訊いていいですか?」
「ん、何?」
「彼女、いますか?」
「いるよ。瑪都流《バァトル》の鹿山亜美。あいつがおれの彼女だよ」
 キッパリとした返事。わたしの心がバラバラになる。
 瑪都流がわたしを守ると、総長である文徳先輩が約束してくれて、わたしはうなずいた。後ろめたさに押し潰されそうになりながら。
 この恋の成就は、願ってはいけないものだったの?
 見上げる月は明るい。四月十五日、十三夜の月。
 ねえ、と胸の中で青獣珠に語りかけてみる。ツルギの柄は何も答えてくれない。