わたしのほうへ戻ってくる亜美先輩は、ごめんね、と苦笑を浮かべていた。わたしの頭はひたすら混乱している。
「い、今の、あの」
「あいつらの肘? 折ってないよ、外しただけ」
 そうじゃなくて。ケンカの話じゃなくて。
「総長の嫁って……」
 亜美先輩が声をたてて笑った。リュックサックを拾って、わたしの肩を抱えて、北口広場に戻る道を歩き出す。
「妙な表現だよね。嘘とは言わないけどさ。昔から両家の親の同意もあるし」
 照れたような笑顔。キレイな人。カッコよくて強くて、楽器ができて、料理が上手で、面倒見がよくて。
 わたし、一つもかなわない。
「亜美先輩は、文徳先輩と……」
「付き合ってるよ。っていう言い方も、今さらだな。許嫁《いいなずけ》のほうが正確かもね」
 ガラガラと、心の壁が崩れていく。
 崩れてくる。大切に組み上げていくはずだったものが、ガラガラと。そしてわたしは、尖った破片で生き埋めになる。
 初恋だった。運命だと思った。輝く月に何度も願った。月がこの恋を叶えてくれるはずだった。
 見上げる夜空に月がある。十四日の、ほぼ丸い月。わたしの願いの象徴。
 なぜ?
 亜美先輩がわたしに微笑みかける。この人のことは憎くない。でも、文徳先輩との関係は憎い。
 あっ、と気付いた。十五日の朝に見た夢の中で、血まみれで倒れていた花嫁の正体は亜美先輩だった。
 夢で聞いた声が頭の中によみがえる。願いのこもった、狂気的なくらいに切実な声が。
【何度やり直してでも、わたしはあきらめない】
 恋を叶えるために、宝珠に願いを掛けて、代償を捧げて、時を巻き戻しながら、大切な人を想っている。
【動き出した願いはもう止められないのよ】
 あの声は、わたし? もしかして、あれは夢ではなかったの? 夢ではなくて、やがて訪れる未来の姿なの?
 もしそれが真実だというなら、時が巻き戻るというなら、あの未来こそが巻き戻しの起点かもしれない。
 わたしはポーチの中に手を入れて、ツルギの柄を握りしめた。
 亜美先輩がわたしの顔をのぞき込んだ。
「鈴蘭、どうかした?」
 声がわたしを突き動かす。
【この一枝は、きっと正しくない。より幸福な未来がほかにある。だから、一度リセットさせて。必ず、わたしが幸せな未来を創るから】
 亜美先輩が文徳先輩と結ばれるとしたら、そのウェディングの日は呪われている。予知夢のような未来で、わたしはそれを体験した。
 亜美先輩が悪いわけじゃなくて、わたしがわがままを通すわけでもなくて。
 青獣珠、応えて。刃を出して。役割って、そういう意味なんでしょう? このまま進んでいく未来は正しくない。だから、わたしがこの未来の芽を断ち切るの。
 トクトクトクトク、と青獣珠が鼓動する。緊迫するような、せわしないリズムで。
 手のひらにチカラが集まってくる。握りしめた柄にチカラが伝わる。わたしはポーチからツルギを引き抜いた。
 刃が青く輝いた。
 亜美先輩が目を見張る。次の瞬間、切っ先が亜美先輩の胸に吸い込まれた。刺し貫いた心臓が震えた。そして動きを止めた。
 青獣珠が悲鳴をあげる。
 悲鳴は、ガラスを引っ掻く振動のように、強烈な悪寒を起こした。命の消えた一点から爆発的なチカラが噴き出す。
 夜の風景が消えた。音も感覚も匂いも消えた。


座標
C(嫦娥公園裏,4月16日21:21,鹿山亜美)

B(下校途中,4月15日19:14,緋炎狂犬)