襄陽学園の最寄り駅、玉宮《たまみや》駅。
 駅の南口にはバスのロータリーがあって、タクシー乗り場や駐車場があって、コンビニ、ファミレス、立体駐車場がある。国道に面しているから車通りが激しくて、歩行者には優しくない環境だ。
 北口のほうが人通りが多い。大時計と噴水が設置された広場は、町の人々のいこいの場だ。駅の利用者だけじゃなくて、散歩やジョギングのために訪れる人もいる。古くからの商店街の入り口が見えて、すぐそばには小さな古い公園もある。
 瑪都流のストリートライヴは北口広場で開かれる。駅から少し離れて、道向かいに公園が見える場所だ。
 北口広場は二十一時までなら公演OK、と市の条例で許可されているらしい。市民が発信する音楽や芸術や文化を地域ぐるみで育てる試みなんだって。
 放課後、わたしが寧々ちゃんたちと一緒に北口広場に到着したとき、文徳先輩たちはスタンバイ中だった。
 真ん中にスタンドマイク。向かって右手にギターの文徳先輩。その後ろにドラムの牛富先輩。牛富先輩の左側にシンセサイザーの雄先輩。雄先輩の手前にベースの亜美先輩。
 牛富先輩は、あの大きなドラムセットは持って来ていなくて、薄いノートパソコンをスピーカーにつないでいる。
「ドラムは音源を打ち込んであるんだ。録音を含む機械系は、おれの担当。意外だろ? こんなゴツい男が、実はちまちました機械いじりが得意ってさ」
 牛富先輩は笑って言った。ちなみに、うしとみっていうニックネームは、苗字と名前の一文字目だそうだ。
 雄先輩も、軽音部室で使っているシンセサイザーではなくて、もっと簡略なキーボードをセッティングしている。
「ストリートも楽しいけど、演奏の条件が制約されるんだよね。たまにはライヴハウスでやりたいな」
 雄先輩はそう言って肩をすくめた。
 文徳先輩がギターの調音していた。指の動きがすごく速い。文徳先輩はわたしを見付けて、ニッコリした。
「おかげさまでギターが弾けるよ。昨日は本当にありがとう」
「お役に立てて、本当に嬉しいです」
 文徳先輩の前にもスタンドマイクがある。コーラスとMCのためのマイクなんだって。真ん中のマイクで歌うヴォーカルの煥先輩は、今はまだ隅のベンチでじっとしている。
 わたしは周囲を見渡した。レトロなヨーロッパ調の駅舎。タイル敷きの北口広場。そして、嫦娥《じょうが》公園。
「なつかしいな、ここ」
「お嬢、このへん来るの?」
「子どものころ、おばあちゃんと一緒にね。よく嫦娥公園の祠《ほこら》まで来てたの」
「あ、その祠、知ってるよ! 永遠の美のご利益があるって」
「そうそう。不老長寿のご利益もね。月の女神さまがまつってあるんだって」
 おばあちゃんはいつも、わたしに「願いは月に託しなさい」と言って、嫦娥公園の祠の前で手を合わせてみせた。わたしはもちろん、おばあちゃん真似をして、願いがあるときには月を仰ぐようになった。
 青獣珠に願いをかけちゃダメ、っていう意味なんだと、あるとき気が付いた。青獣珠には人の願いを叶えるチカラがあるというけれど、わたしはそれを預かるだけで、決して使ってはならない。それは、大昔から堅く守られてきた掟だ。
 最近おばあちゃんとゆっくり話していない。今度また一緒に散歩しようかな。おばあちゃん、嫦娥公園に咲く季節の花を楽しみにしていたし。
 嫦娥公園は小さな公園だ。真ん中に丸い池があって、その中心部に月の女神の祠がある。美しく配置して植えられた季節の花は、すべて白い。池の睡蓮《すいれん》や、遊歩道の百合、植込みの金木犀《きんもくせい》。今はツツジが咲き始めたところだ。
「あれ? あの子……」
 嫦娥公園の出入口のそばに、長い黒髪の女の子が立っている。色白で、キレイな顔立ちの子だ。
 どこかで会ったことがある気がする。襄陽学園の子かな。ライヴの開始を待っているの?
 電車がときどきやって来ては、学校帰りや会社帰りの人たちを吐き出していく。そのうちの幾人かが北口広場のライヴ会場で足を止める。あの人たち、きっと瑪都流のファンなんだ。
 文徳先輩がマイクに声を通した。
「煥、そろそろ出てこい。ライヴ、始めるぞ」
 歓声と拍手が起こった。煥先輩が隅のベンチを立って、歩いてくる。
 文徳先輩が、ギュンッとギターを鳴らした。亜美先輩と雄先輩も、呼応して音を出す。牛富先輩がパソコンの画面をチェックしてうなずく。
 ああ、始まるんだ。期待で胸がドキドキする。
 文徳先輩はマイク越しに、聴衆に呼びかけた。
「皆さん、こんばんは! 瑪都流です! ストリートライヴに足を止めてくれてありがとう。四月に入っても、夜はまだ冷えるね。寒かったら、音に合わせて体を動かしてください」
 文徳先輩は制服のズボンと、上はTシャツにパーカーを羽織っている。煥先輩たちも同じコーディネートだ。
 亜美先輩だけは上から下まで私服。ボーイッシュなスタイルでベースを構えるのがカッコよくて、寧々ちゃんは目をキラキラさせている。
「亜美先輩、やっぱイケメン! サイコー!」
 煥先輩がフロントマイクの前に立った。うつむきがちで、表情が見えない。
 文徳先輩が牛富先輩に合図を送った。牛富先輩がパソコンに触れる。
 スピーカーから雑踏のざわめきが聞こえた。牛富先輩がミックスした音源だ。ランダムな足音。聞き分けられない、いくつもの話し声。
 不意に、そこにベースの音が走る。亜美先輩がピックを躍らせている。録音されたざわめきが表情を変える。まるで耳を澄ますかのように。
 きらびやかな音がスキップした。雄先輩のキーボードだ。音源の中の足音が方向性を持った。駆け寄ってくる。
 文徳先輩のギターが鮮やかな音を紡ぎ出す。明るい響きとシリアスな響きが交互に現れる。音源の中で、牛富先輩のドラムが動き始める。瑪都流の音色がリズミカルに息づいていく。
 ロックという音楽を、わたしはよく知らない。うるさそうで不良っぽいイメージだけがある。
 違うんだ、と感じた。わたしの先入観はたぶん正しくない。
 躍動。等身大。正直。
 音に込められたメッセージが聴こえてくる。音の鼓動に、胸が馴染んでいく。
 文徳先輩が、えくぼのできる笑い方をした。牛富先輩、雄先輩、亜美先輩。順繰りに目配せをしてうなずき合って、そして、マイクに触れない声が呼んだ。
 あきら。
 煥先輩は前髪に表情を隠してうつむいたまま、一つ、うなずく。それから、ふっと空を見上げた。
 深く息を吸う。
 煥先輩は正面を向いて目を閉じた。