わたしはハッとした。
 目覚まし時計が騒いでいる。
「ここは……わたしの部屋。さっきのは夢……じゃ、ない……?」
 走った後のように鼓動が速い。全身に汗。鳥肌が立っている。
 わたしは自分自身を抱きしめた。
 夢のはずがない。さわられた感覚がまだ肌に残っている。吐き気がするほど気持ち悪かった。
 そして、右手にもなまなましい感触が残っている。人を差した感触が。心臓が止まる瞬間をダイレクトに感じた。
 でも、ここはあの路地じゃない。わたしの部屋だ。
 目覚まし時計が朝を告げている。カーテンの隙間から光が漏れている。あれから一晩明けたの?
 記憶が途切れている。路地で赤い特攻服の男を刺した瞬間に何もかもが消えて、そしてどうなったのか。
「そうだ、日付! ケータイ!」
 記憶が飛んでいるなら、今日は四月十六日以降だ。それに、わたしが殺人を犯したならニュースになっているはず。どっちにしても、ケータイですぐにわかる。
 わたしは、騒ぎっぱなしの目覚まし時計に触れた。レトロなアラームが黙り込む。ベッドから起き出して、勉強机の上の三日月ストラップのケータイを、カパッと開く。
 四月十五日、午前六時四十分。
 新着メールが一通。送信者は、寧々ちゃん。
「四月、十五日?」
 昨日の日付だ。
〈お嬢おはよー! いつものとこでOK!?〉
 頬の赤い黒熊のイラストが目に飛び込んできた。ガツンと頭を殴られたような、驚きというよりも衝撃。
 寧々ちゃんのメールはいつも似たような文面だけれど、デコメのキャラクターまで同じことはない。十五日のデコメは頬の赤い黒熊、十四日は梨の妖精、その前はコアラの球団マスコットだった。
 わたしは呆然としながら返信する。
〈おはよう。寝坊しないで起きたよ。また後でいつもの場所で〉
 三日月ストラップが揺れた。クローゼットの前の制服の下に、青獣珠がある。ツルギの柄の姿をしている。
 部屋のドアがノックされた。メイドさんの声がする。
「鈴蘭お嬢さま? お目覚めでしょうか?」
 反射的に、わたしは返事をした。
「おはよう。起きてます。着替えてから食堂に行く、と母に伝えて」
「かしこまりました」
 昨日と同じ朝? それとも、ただの、いつもと同じ朝? すでに四月十五日を過ごしたと思ったのは、わたしの記憶違い? これはデジャヴ?
 わたしの中から違和感が消えない。けれど、母もメイドさんも門衛さんも、何の違和感も持っていないように見える。
 家を出て坂を下って、コンビニの前に寧々ちゃんを見付ける。
「おはよう、寧々ちゃん。待たせてごめんね」
「おはよ、お嬢! あたしもついさっき来たとこだよ。ん、寝不足? 顔色、悪くない?」
 コンビニから尾張くんが出てくる。
「おす、安豊寺、おはよーさん!」
 尾張くんは早速おにぎりをパクついて、寧々ちゃんに頭をはたかれる。いつもと同じ、じゃれ合うケンカ。
 順一先輩は一緒じゃなくて、わたしと寧々ちゃんと尾張くんの三人だ。話をしながら、学校へ向かう。それぞれのクラスのこと。瑪都流《バァトル》という暴走族のこと。
 隣町の不良グループの話で、体が震えて脚がすくんだ。わたしは人を殺したかもしれない。でも、まだニュースになっていない。
「お嬢、どしたの? 具合悪い?」
「な、何でもない」
 不思議そうな寧々ちゃんと尾張くんに、無理やり笑ってみせる。背中を冷や汗が伝った。行こうと言われて、うなずいて、止まっていた脚を動かす。
 この先の展開を、わたしは知っている。今日が昨日と同じ日なら、もうすぐ文徳先輩に会える。
 そしてやっぱり、襄陽学園の塀のそばで、昨日と同じ情景を見た。
「文徳先輩……」
 寧々ちゃんがわたしを肘でつついた。
「お嬢、挨拶しに行っちゃえば?」
「ええっ?」
「そんなにビビらないの」
「だ、だって」
 わたしのチカラを文徳先輩に見せた。気持ち悪がられるかもしれない。
 でも、どうなんだろう? 癒傷《ナース》を使ったのは、十五日の放課後。今が本当に十五日の朝なら、文徳先輩はまだ何も見ていない。
 女子の先輩二人が駆けていって、文徳先輩に挨拶する。文徳先輩はにこやかに受け答えしている。
 ふと、文徳先輩の言葉が脳裏をよぎった。困ったことがあったら、頼ってほしいな。そんなふうに言ってくれたのは、ほかならぬ文徳先輩だ。
「わたし、行ってみる」
 文徳先輩なら、わたしの不安と恐怖と謎に向き合ってくれるかもしれない。すがるような思いで、わたしはカバンを抱きしめて走り出す。
 文徳先輩が、わたしに右手を挙げる。左肩には、ギターケースが引っ掛けられている。
「おはよう」
「お、おはよう、ございますっ」
「そんなに走って、どうしたの? 何か急ぎの用事?」
「あ、いえ、その……」
 先輩二人が共犯者みたいに茶々を入れる。文徳先輩が少し困った顔をする。
 わたしはどんな会話をした? そう、文徳先輩がギターを弾くと知った。
「文徳先輩、楽器をされるんですね」
「ああ、バンドやってるんだ。ギターだよ」
 素晴らしいと言うわたしに、文徳先輩は微笑む。嘘をついている顔じゃない。これは演技なんかじゃない。
 本当に、十五日の朝の光景だ。わたしが記憶しているとおりの。