「何て呼べばいいですか?」
「何とでも呼べ」
「じゃあ、パ……」
「パパはやめろ」
「それなら、おとう……」
「却下」
「えーっと、ちちう……」
「却下!」
「だって、何とでも呼べって」
「言ったが、父親って発想から離れろ」
 食卓の向かいでは、兄貴が爆笑している。笑いごとじゃねぇよ。まったく。
 オレは、だし巻き卵を口に放り込んだ。丁寧に巻かれた卵の淡い味。しゅっと染み出るだしの香り。
「うまい」
 思わず、本音がこぼれた。師央がパッと顔を輝かせた。
「うわぁ、よかったです!」
 師央を拾ったのは昨日のことだ。昨日の晩飯はそのへんのファミレスだった。いつもどおりってわけだ。
 オレと兄貴は、セキュリティ完備の2LDKに二人で暮らしている。オレも兄貴も料理なんかできない。たまに瑪都流のメンバーが作りに来る。オレたちに実家ってものは存在しない。両親って人もいない。莫大な遺産と遠巻きの親族が、オレと兄貴の後ろ盾だ。
 師央が早朝に起き出したのは気が付いた。外に出ようとしたから止めた。
「勝手にうろちょろするな」
「じゃあ、一緒に来てもらえますか? 朝ごはんの材料、買いたいんです」
 いちばん近いコンビニへ師央を連れていって、金も出してやった。帰ってきた師央は、キッチンに立った。三十分後に、純和風の朝飯が出来上がった。白米、味噌汁、だし巻き卵、白菜の浅漬け。
「浅漬けは、出来合いのものなんですけど。味、お口に合うかな?」
 オレと兄貴を前に、師央は肩を縮めた。兄貴は即座に食べ始めて、「うまい!」と目を輝かせた。外ヅラのいい兄貴はお世辞も得意だけど、この顔は本気だな。
 ただ、なんとなく、オレは箸をつけるのに抵抗があった。だって、師央の正体がわからない。言葉も行動も意味不明だ。
 黙ってたら、呼び名云々の話になって、兄貴が爆笑して、オレは腹が立って、でも、だし巻き卵はうまくて。
 視線を上げてみる。師央の笑顔にぶつかる。ドキリ、とする。いや。ザワリ、か。何だろう? 白獣珠が、オレの違和感に同期して、拍動をわずかに速める。
 能力を持ってるせいか、オレは勘がいい。予感や直感は、たいてい当たる。そのオレが、師央の赤茶色の目を見ていると、なつかしさ、寂しさ、やるせなさを感じる。
   ――すまない――
   届かない言葉。
   ――生きてくれ――
   届けたい願い。
 記憶に似た、予知夢のような何かに、胸が騒ぐ。オレはこの未来を知っているのか?
「煥、さん?」
 呼ばれて、ハッとした。師央がオレの名を呼んだんだ。
「それなら許す」
「あ、はい、ありがとうございます。あの、煥さん、考えごとですか?」
「何でもない」
「朝はパンのほうがよかったですか?」
「どっちでもいい」
 兄貴が口を挟んだ。
「おれは和食が好きだな。それにしても師央くん、料理がうまいんだね。どこかで習った?」
「ありがとうございます。伯父……じゃなくて、文徳さん。師央って呼び捨てしてください。そっちのほうが慣れてるので」
「わかった」
「料理は、見よう見まねです。ぼく、そういう能力があるんです」
 能力? ってのは、一般的な意味か? それとも……。
「おい、煥、眉間にしわが寄ってるぞ。もうちょっと柔らかい顔をしてろ。師央が怖がってるじゃないか」
「この顔は生まれつきだ」
「嘘だ」
「即答したな」
「おれは知ってるぞ。昔の煥はかわいかった。おにいちゃんって、いつもおれの後を……」
「十年以上昔だろ!」
 幸せで、平和で、両親もいて、毎日、楽しかった。それが壊れるときが来るなんて思ってもみなかった。
 でも、きっと、これは仕方のない運命なんだ。オレは宝珠の預かり手だから。宝珠はチカラを持ってる。チカラは争い事を招く。それくらい、頭の悪いオレにもわかってる。
 食事の後片付けまで、師央は完璧だった。苦労して育ってんのか? 普通に湧いた疑問。同時に湧くのは、不吉な予感。
 同じことを、兄貴も考えていた。皿洗いの背中に聞こえない声で言う。
「家事、慣れすぎだ。日常的にやってるんだろう。どういう家庭事情なんだろうな?」
 例えば、親がいない? 親戚の家に、遠慮しながら住んでる?
 あいつはオレを父と呼ぶ。兄貴を伯父と呼ぶ。そのタチの悪い言い方に従うなら、ゾッとする。
「オレは、詮索するつもりはねぇよ。でも、兄貴は信じるか?」
「おれが師央の伯父だって話?」
「信じられるはずもないか」
 兄貴は肩をすくめた。
「さあ、どうだろう? 起こり得なくはないと思うけどな」
「オレは信じられない。時間をさかのぼる? 異常だ。あり得ない」
「奇跡の宝珠の預かり手で、不思議な能力の使い手が、頭から、異常を否定するのか?」
 兄貴は、無駄にさわやかに笑った。
「オレは白獣珠の力を見たことがない」
「軽々しく使うものではないからな。でも、もしも師央が使ったのなら……」
 水音がやんで、兄貴が言葉を切った。皿洗いを終えた師央が振り返った。
 兄貴はさりげなく表情を変えた。生徒会長モードだ。ってのがわかるのは、オレだけだろうな。いや、亜美《あみ》さんにもわかるか。亜美さんは兄貴の彼女だ。
「師央、ありがとうな」
「このくらいでよければ、いつでも」
「助かるよ。ところで、今日、どうするつもりだ?」
「えーっと」
 師央は何も考えてないらしい。兄貴は、しれっと言った。
「それなら、襄陽学園に来るといい。煥、制服を貸してやれ。新品のが一着、あるだろ?」
 オレの制服はケンカのせいでボロボロで、見かねた兄貴が新品を買った。でも、オレはいまだに古いほうを着てる。
「ちょっと待てよ、兄貴。学外者を連れ込めって? バレたらどうするんだ?」
「ほぉ。じゃあ、煥は師央をほっとくのか? いつ緋炎が復讐に来るか、わからないのに?」
「この部屋なら安全だ」
「なら、煥もここにいてやれ」
「イヤだ」
「だったら、師央を連れて出るぞ」
「…………」
 兄貴に逆らっても、ろくなことはない。というか、面倒くさくなってきた。
「制服、貸してやれよ」
 兄貴のダメ押し。オレのため息。
「わかったよ」
 師央が無邪気に飛び上がった。
「うわぁ、いいんですか! やったぁ! パパと同じ学校に行けるなんて!」
「パパじゃねえ!」