緋炎は、あっけなかった。足腰が立つうちに逃げ出した。総力戦と言ってたくせに、呆れる。
 こっちも無傷ではない。兄貴の頬にも殴られた跡がある。生徒会長なのに、明日どうするつもりだ? 腫れが引かない顔じゃ、ケンカがバレるぞ。
 さいわい、骨折みたいな重傷者はいなかった。兄貴は、全員の状態を確認して、息をついた。すぐに笑顔になる。
「大事に至らなくてよかった。おれたちに付き合って一緒に戦ってくれたみんな、ありがとう!」
 それが兄貴の、表の本心。裏では、ICレコーダーにすべて録音してある。緋炎を陥れるネタは、録音データから拾う手筈だ。
「おい、兄貴。ここは兄貴に任せる。オレは師央たちと話したい」
 兄貴が真剣な目をした。外灯に照らされて、赤みがかった茶色の目がきらめく。兄貴が、オレの肩をポンと叩いた。
「白獣珠のことだよな。行って来い。おれは預かり手じゃないから力になれなくて、すまん。おれ自身の運命もかかってるってのに」
 兄貴は、師央が十五歳のときに死ぬ。師央を過去に送って運命を変えさせるために。そんなふうに、両親の墓の前で師央が告げた。
「変えてやるよ、運命。もちろん、兄貴のぶんもな」
 オレは兄貴たちのそばを離れた。海牙と理仁が、何も言わずについて来た。
 半壊したバー、カルマの出入口のあたりで、鈴蘭と師央は体を縮めていた。
「終わったぜ。二人とも無事か?」
 師央が笑顔を見せた。
「無事です。煥さんも無事みたいで、よかった」
「オレがあの程度の連中に負けるかよ。ほったらかしてて、すま……」
 すまなかった。そう言おうとして、息ができなくなる。鈴蘭がオレに抱き付いている。柔らかくて温かい。
「煥先輩、わたしっ」
 言葉が、すすり泣きに変わる。オレの胸に、鈴蘭は顔を押し当てている。Tシャツが汗と埃に汚れてるのが、急に気になった。
「おい、バ、バカ、何なんだよ?」
「ご、ごめん、なさ……わたし、何の役にも立てなくてっ、あ、足手まといで、守られてる、だけで! 預かり手、能力者なのにっ。自分が、悔しくてっ」
 オレは鈴蘭を見下ろした。キレイにまとめてあった髪がほどけている。小さな肩が、泣きじゃくって震えている。
 海牙が、足音をたてずにオレのそばに来て、半端に浮いたままのオレの右の手首をつかんだ。海牙の手に導かれて、オレの腕が動く。オレの右腕は、鈴蘭を、そっと抱いた。左腕を添える。オレの腕の中で、鈴蘭が体を硬くした。
 なつかしい、と感じた。鈴蘭を抱きしめること。その柔らかさと温もりと存在感が、なつかしい。
   ――誓います――
   神じゃなく、命に懸けて。
   ――おまえたちを愛し抜く――
   そして尽きる、オレの命。
 未来の記憶が押し寄せる。何が起こるのか、形は見えない。ただ、オレがこれからいだくはずの感情が、胸を満たしていく。
 痛い。胸が痛い。壊れていく幸せの残像。心が痛い。
「あ、煥、先輩?」
 鈴蘭がオレを見上げた。薄暗い屋内。でも、鈴蘭の表情はハッキリわかる。
「涙、止まったか?」
 鈴蘭が、こくりとうなずいて、オレの胸を少し押した。オレは腕をほどいた。
 理仁が、近くの椅子を引き寄せて座った。明らかに消耗している。口元の笑みにも無理がある。そのくせ、口調を変えない。
「さてと? 甘~いシーンを見せつけてもらったところで、次に進みましょうかね。海ちゃんにチラッと聞いたけどさ、白獣珠、盗まれたって?」
 オレは、黙って首を縦に振った。