オレも、鈴蘭も師央も理仁も、海牙や天沢までも、ひざまずいている。全身を、冷たい震えが襲う。頭を上げたら命がない。そんな恐怖の妄想が、脳内に植え付けられている。
 いや、ふざけんな。平井の意のまま、ただ一声で、自由を奪われる? 恐怖による支配? 絶対的に強力な異能?
 オレの意志は、オレのもんだ。
【骨があるな、伊呂波煥くん。きみの強さは、能力だけに依存していない。いいね、おもしろいよ】
 だから、さっきから言ってるだろうが。上から目線は気に食わねぇんだよ。
【一つ、きみに、いい体験をさせてあげよう。少々怖い思いをすることになるがね】
 は? ふざけ……。
 ストン、と場面が切り替わる。浮遊感。巨大な手のひらにわしづかみにされる錯覚。薄明るい意識野に、声が響く。
【襲え】
 え?
【きみが最も襲いたくない相手を、最も守るべきだと信じる相手を、きみのその手で】
 おい、何言って……。
【襲え、伊呂波煥】
「おそう?」
 この手で? 最強と謳われる、この体で?
 オレは、銀髪の悪魔。戦うときには一切容赦せずに、潰す。血も涙も忘れて、相手の痛みなど考えずに、壊す。
「襲う」
 最も弱くて、最もうまそうで、最も美しい。それは誰?
【さあ、襲え】
 知っている。オレは、オレの本能を知っている。意識が赤く染まっていく。ケダモノの色に満たされていく。
【本能を突き動かして、襲え】
 外されるリミット。アクセルはフルスロットル。オレの顔が歪む。笑いの形に歪む。オレは牙を剥く。爪を研ぎ澄ます。
「あ、煥、先輩?」
 怯えて揺れる青い目。すくんだ体。細い肩をつかむ。力を加えるまでもない。
 襲いたい。
 女の体にのしかかる。震える女の唇を手のひらで押さえる。うるさい女は嫌いだ。
 加速する衝動。本性を現すケダモノ。理性と迷いを断ち切る、支配者の命令。
【最も襲いたくない相手を襲え】
 繰り返された命令に、しかし突然、本能が叫んだ。
 矛盾だ!
 本能は知っている。戦うことの意味を知っている。オレが悪魔になれるのは、それが守るための戦いだからだ。壊すためじゃない。壊すことは望んでない。
 襲うことは望んでない。
「あああぁぁぁぁぁああっ!!」
 オレは叫んだ。鈴蘭の肩口に顔をうずめて、喉が裂けそうなほど叫んだ。息をつく。鈴蘭の甘い髪の匂いがした。畳の匂いがした。
「煥先輩、大丈夫、ですか?」
 鈴蘭のかすれ声が聞こえた。
 頭が痛い。胸が痛い。意識が、本能が、引き千切られそうになった。
 戦いの手段は、破壊することだ。オレは破壊が得意で、それを楽しむ本性を確かに隠し持っている。
 戦いの目的は、守ることだ。守るためだからこそ強くなれて、絶対に守りたい存在を理解している。
 自分自身を怖いと思った。壊すことも守ることも紙一重で、どちらを選ぶのか自分の意志ひとつで、オレの意志は弱い。
 オレは起き上がって、鈴蘭から離れた。師央と理仁が鈴蘭を助け起こす。オレは目を閉じた。呼吸を整える。ゴトゴトと走る心臓。恐怖が去っていかない。
 平井の声が聞こえた。
「怖かっただろう、伊呂波煥くん? 守りたいものを、一時の衝動で破壊しそうになる。自分に力があるからこそ、破壊できてしまう。それがどれほど怖いことか。今、わかってもらえただろう?」
 沈んだ響きだった。まじめな口調だった。オレは目を閉じたまま訊いた。
「自分はいつもその恐怖を感じている、と言いたいのか?」
 平井が答えた。
「そのとおりだ。私は、途方もないものの預かり手だから」
「途方もないもの?」
「この地球上で最も大きな宝珠だ。人類にとって最も重要な球体だ。私が預かっているものの正体がわかるかね?」
 平井の問いに応じたのは、師央だった。
「まさか、地球?」
「その『まさか』だよ。大地聖珠《だいちせいしゅ》、つまり地球。そんなものを、一人の男が預かっている。人の身に余る能力を授けられて、な」
 平井が持つチカラ、掌握《ルール》。全知全能と言えるほどの、結界で抑えなければならないほどの、あまりに強すぎる能力。その根源は、圧倒的に巨大で重大な宝珠を預かるため。
「地球の、支配者か」
 平井は静かに言い放った。
「そうだ。私は地球の支配者だ。別の言い方もできる。私は運命の預かり手だ」
 運命、という言葉。最近よく意識するモノだ。目に見えない。存在するのかどうかもわからない。
 いや、それが存在するとして。平井がそれを感知できるのだとして。
「運命は、変えられるのか?」
「変えられるよ、伊呂波煥くん。正確には『運命の一枝』を変えられるんだ」
「一枝? ひとつの、枝?」
「運命は、大きな樹の形をしている。未来の可能性は、枝分かれを繰り返す。私が預かるのは、そのうちの一枝だ。枝は、分かれる可能性を持っている。運命の一枝は、つねに変化の可能性を持っている」
 師央が、震える声を絞り出した。
「運命の、この一枝は、ぼくが未来からきたことで、変化がありましたか?」
 沈黙があった。オレは目を上げた。平井の顔に、予想外の表情があった。不安、だ。
「変化し、不安定だ。今の大地聖珠、この一枝は、半月前から、ひどく『重く』なった」
 半月前。師央が突然現れたころだ。
 オレは師央を見た。師央は目を伏せて、唇を噛んだ。蒼白な顔。師央の唇が再び動いた。
「ぼくは、変えます。運命のこの一枝の未来を、必ず変えてみせます。失われた幸せを、取り戻すために」
 苦しそうな師央を見てられない。オレは平井をにらんだ。
「あんたは、何もしないのか? 異変が起こってるのをわかってる。そのくせ、ここで黙って見過ごすのか?」
 平井はうなずいた。あきらめたような、静かな顔だった。
「私は、何も為してはならないのだ。すべてを知っている。すべてに影響を及ぼすことができる。強いチカラがあるからこそ、禁忌もまた大きい」
 不自由なもんだ。全知全能イコール、何もしちゃいけねぇとは。
「そうだな、伊呂波煥くん。因果の天秤は均衡していなければならないからね。ああ、もう一つ教えておこう。宝珠の預かり手は、因果の天秤の預かり手でもある。狂った均衡を正すため、きみたちはチカラを試されるのだ。精いっぱい、暴れてきなさい」
 ギリギリまで必死になって戦わなきゃ、ほしい未来は手に入らない。そういう意味だと思った。