邸宅は、天井の高い平屋建てだった。靴を脱いで、長い廊下を歩いていく。相変わらず、海牙は足音をたてない。
 広い中庭を見ながら、廊下の角を曲がった。そのとたん、海牙が足を止めた。つられて立ち止まったオレの背中に、鈴蘭がぶつかった。
「離れろ」
「す、すみません」
 廊下の先に、男が一人、立っている。薄暗い雰囲気の男だ。二十代半ばってところか。細身で、額にヤケドの痕がある。体のさばき方が異様にひそやかだった。まばたきの少ない目が、えらく据わっている。
 海牙が笑顔をこしらえた。完全に、作り笑顔だった。今までは案外ほんとに笑っていたのか。
「お久しぶりです、世良《せら》さん。こちらの邸宅にいらしていたんですか」
「どうも。後ろのかたがたはお友達ですか?」
「総統のお客さまを案内してるんですよ」
「ああ、なるほど」
 世良が、オレに視線を向けた。ピンと来る。こいつ、本当はオレたちのことを知ってる。とっくに探ってあるくせに、知らんぷりをしている。
 海牙が世良に会釈して、再び歩き出す。世良の脇を通り過ぎるとき、ピリリと神経が緊張した。
 目が合ったのは一瞬だった。世良は深い礼をした。オレは世良のそばを離れた。不快なやつだ。巧妙に隠されていたけど、確かに世良は殺気を抱えていた。
 十分に距離を置いてから、海牙が息をついた。
「大人げないところがあるんですよね。世良昌平《せら・しょうへい》さん、確か二十五歳。ぼくは嫌われてるみたいです」
「嫌われてる、か? それ以上じゃないのか?」
「さあ? 彼なりに必死なのは伝わってくるんです。彼の兄貴分がまた必死な人でね。総統のお目に叶いたいって、頑張りすぎてるんですよね」
 ようやく目的の場所に着いた。黒服の護衛が両脇に控える部屋がある。意外に質素なデザインの襖だ。と思ったら、違うらしい。理仁が襖に顔を寄せて、口をあんぐり開けた。
「南宋画ってやつだよね~。すげー、これ本物っしょ?」
「値打ちものだ、とだけ聞いてますよ」
「値打ちのスケールが違うって」
 海牙が襖に手を掛けた。それを引くよりも先に、襖が開いた。中から、白髪の老人が顔をのぞかせた。背筋の伸びたスーツ姿だ。
「総統がお待ち兼ねだぞ、海牙」
 海牙は老人に首をすくめてみせた。振り返って、紹介する。
「総統の執事の天沢《あまさわ》さんです」
 天沢が襖を大きく開けた。数十帖の畳の部屋が広がっている。天沢がオレたちに背を向けた。スーツに切れ込みが入っている。そこから大きな黒い羽根が生えている。
「能力者!?」
 ばさり、と天沢は羽根をはばたかせて浮き上がった。低い空中を、部屋の奥へと飛んでいく。
 理仁が開き直ったようにつぶやいた。
「もはや驚かねぇぞ~。何が起こっても驚かねぇからな~」
 天沢が降り立ったそばに、男がいる。羽織袴の出で立ち。堂々とした体格の男だ。一目でわかった。あの男が総統だ。
 威圧感が、違う。
 羽織袴の男がこっちを見た。その瞬間、膝がわなないた。震えたわけじゃない。ひれ伏せ、という無言の圧力に屈しそうになった。背筋に冷汗が流れる。
 男が口を開いた。
「そんなところで突っ立って、どうした? こちらに来るといい」
 口調は静かで、穏やかですらある。なのに、強烈だ。従わざるを得ない。足が勝手に動き出した。部屋に踏み入る。畳の匂いがした。
 ひれ伏したい衝動が消えない。でも、衝動に抵抗する。オレは顔をまっすぐに上げて、男の目を見て歩いた。目の奥が焼け付く。まぶしい光を見つめ続けているみたいだ。
 畳二帖ぶんほどを隔てたところで、足が自然と止まった。オレはまだ男の目を見ていた。
 男が名乗った。
「私の名は、平井鉄真《ひらい・てっしん》。きみたちのことは知っているよ。ご足労、ありがとう」
 朗々とした声。風格、威厳。圧倒されそうになる。年齢は、五十歳くらいか。
 平井がオレを見た。整った顔に、ゆったりした笑みがある。
「四十八歳だよ。きみの父君が生きていれば、私より四つ年下だ」
 思ったことを読まれた?
 平井がオレたちを順繰りに見やった。鈴蘭が目を伏せた。師央が息を呑んだ。理仁が眉をひそめた。三人の様子を確認して、オレは平井に向き直った。平井がオレにうなずいた。
「伊呂波煥くんだな。きみはいい目をしている」
 上から目線かよ、えらそうに、と思った。恐れ多いお言葉を頂戴した、とも思った。二つの思いがオレの中でぶつかり合った。
「ああ、これはすまないね。見下しているわけではないんだ。かしこまることはない。若者は、大いに反抗しなさい」
 また、読まれた。
 海牙を横目に見る。表情を消している。オレと目が合って、かすかに微笑んだ。オレは唇をなめた。短く深呼吸して、低い声を放った。
「オレたちに話があると聞いた。用件は何だ?」
 平井は、ひとつ、うなずいた。
「お話ししよう。まずは、自己紹介を続けさせてくれ。諸君もお察しのとおり、私も能力者だ。それも、少し特殊な能力を持っている。私は割と全知全能でね」
 まるで自分が神であるかのような言い草だ。が、平井はかぶりを振った。
「神ではないよ。私は、世界の創造などしていない。老いるし、たまに風邪もひく。動き回れば、筋肉痛にもなる。ただ強いチカラがあるだけの人間だ」
 肉体的に普通の人間だとしても、だ。心の声を、平然として聞いている。全知全能ってのは、どれだけのものなんだ?
 平井は少し間を取った。鈴蘭を見て、うなずいた。
「安豊寺鈴蘭さん、きみの考えるとおりだ。私は今、力を抑制している」
 全員の心の声を、平井は同時に聞いている。その上で、平井ひとりがしゃべっている。不気味でアンバランスな会話だ。
「怖がらせてすまないね、伊呂波師央くん。でも、テレパシーは小さなチカラだ。これを抑えておくのは、かえって難しいんだよ」
 まるで、目の粗い網だ。大きな獲物を捕らえるために、小さな獲物を見逃すような。
「その例えは至極正確だよ、伊呂波煥くんと長江理仁くん。二人とも、頭の回転が速いんだね。少しまじめに勉強すれば、テストも満点だろうに」
 余計なお世話だ。点数なんか、どうでもいい。卒業さえできればいい。
 オレの悪態を聞いたからか、平井は笑った。そして、のんびりとした口調で言った。