放課後、部室に行った。ライヴの日程が近付いている。そろそろ本格的に練習しないとマズい。
 部室に兄貴はいなかった。牛富さんが兄貴の伝言を預かっていた。
「屋上に来い、とのことだ」
「鍵、開いてるのか?」
「理仁が開けたらしい。朝、煥も理仁に会ったんだろう?」
「ああ、あの軽いやつか」
「軽いな。煥とは正反対だ。まあ、だからこそ意外と馬が合うかもしれないぜ」
「冗談じゃない」
 牛富さんはしゃべりながら、手のほうはスネアドラムの張りの調整に余念がない。亜美さんはベースの弦を張り替えている。シンセの雄はヘッドフォンを付けて自主練中だ。
 オレは屋上へ向かった。四階から屋上へ続くこの階段には、めったに来ない。一時期、昼休みの居場所にしようとしていた。断念したのは、鬱陶しかったからだ。
 カップルがしょっちゅう来る。まわりが目に入らない様子で、告白もあればキスもあった。もっと過激なのも見たことがあった。さすがに校内であれはヤバいだろ? うんざりした。見たくないときに見せつけんなよ。
 久しぶりの階段を駆け上がる。屋上に出るゴツいスチール製のドアの向こうから、声が聞こえた。
【そんなに嫌わなくてもいいじゃん?】
 理仁の声は、やっぱり異様によく響く。オレはドアを開けた。
 兄貴がおもしろがっていた。師央がオロオロしていた。騒ぎの元凶の理仁は、鈴蘭に手を差し伸べている。
「さわらないでください!」
「さわるっていうか、手を握るだけ」
「来ないでってば!」
 鈴蘭が思いっきり、理仁の手を払いのけた。
「何やってんだ?」
「お、あっきー遅いよ~。おれ、待ちくたびれてさ。女の子成分の補給をしようかと」
 鈴蘭は兄貴の後ろに逃げ込んだ。
「文徳先輩、どうにかしてください! わたし、ああいう人、苦手です!」
「とのことだぞ、理仁。無理強いはするな」
「はいはい、しないよ~。無理強いしようにも、号令《コマンド》が効かないしね~」
 兄貴は肩をすくめた。
「理仁、話したいことって何だ? 早めに切り上げてくれると助かる」
「おや、文徳、忙しいの? 生徒会の仕事?」
「バンドのほうだよ。もうすぐ高体連の地区予選だろ。壮行会で演奏することになってる」
「なるほどね~。じゃ、簡単に言うけど。内緒話モードでね」
 理仁の声の質が変わった。音を持たない声が直接、オレの中に鳴り響く。
【緋炎が買収されたって話だ。買収した母体が何者か、わからない。しかも、伊呂波家を探る動きがある。瑪都流を、じゃない。白虎の伊呂波家を、だ。とにかく気を付けろ】
 兄貴が目を細めた。
「忠告ありがとう、理仁」
 オレは理仁を見据えた。
「あんたこそ何者なんだ? どこまでオレたちのことを知ってる?」
【預かり手は交流しないって? そりゃ、そーいう伝統だよね~。でも、集まりつつあるじゃん? おれさ、文徳と出会ったころから調べてんの。運命とか信じちゃうタチだし?】
「四人の預かり手と四つの宝珠が集まる? そういう運命だと?」
【四獣珠が言う因果の天秤って、気になんない? 重要そうじゃん? てか、交流しないのが可能なのは、昔の話だよ。ネットもスマホも何でもござれの現代で、調べりゃ、あっという間に情報が出てくるのに、お互い知らんぷりなんて、むしろ難しいよ?】
 埃っぽい風が、ざっと吹いた。理仁は、明るい色の髪を掻き上げた。
【でも、ま、調べて出てこないこともあるけど。伊呂波師央、だっけ? きみ、何者? 文徳の親戚なんかじゃないんでしょ?】
 師央が眉根を寄せた。名乗ることを迷ってる? 未来からきた師央も、理仁のことを知らないのか?
 オレは口を挟んだ。
「師央は、事情があってここにいる。素性は、話せるときに話す」
【あ、そう? ま、いーけど。だけど、あっきー、実は優しいんじゃん? 今、師央のこと、かばったでしょ?】
「うるさい」
【照れなくていいって~。そんじゃ、追々話してよ、師央】
 師央は理仁の言葉にうなずきかけた。でも、途中で、かぶりを振った。
「少しだけ、話させてください。ぼくも能力者だってこと、理仁さんは見抜いたから。それに、煥さんにも鈴蘭さんにも、話さなきゃ。昨日の夜、ぼくが障壁《ガード》を出せた理由を」
 鈴蘭を送って行く途中、緋炎に襲われた。そのとき、確かに師央は光の障壁《ガード》を作ってみせた。あれはオレの能力だ。
 師央は自分の喉に手を触れた。口を開く。声を出す。発声練習をするように、短く区切りながら。
【あ、あ、あ……聞こえて、ますか?】
 理仁が目を見開いた。愕然とした顔。
【この声質、おれの号令《コマンド》!】
 師央が発したのは、音を使って言葉を相手に届ける声ではなく、相手の意識に直接命じるための声だった。
【見よう見まね、です。声の能力だから、聞きよう聞きまね、かな?】
 鈴蘭が小首をかしげた。長い髪が風に遊んでいる。
「師央くんは、他人の能力をコピーできるの?」
【コピーというほど、完全じゃないです。まねするのは、難しいし。今だって、ゆっくりじゃなきゃ、しゃべれません。この能力は、習得《ラーニング》。伯父が名付けました】
 預かり手の能力は、その人柄や個性に由来するらしい。だから、同じ能力が存在することのほうが珍しい。
【これで、少し、ぼくのこと、わかりました?】
 師央は軽く息を切らしている。理仁が師央の肩に腕を回した。
「オッケーオッケー。無理しなくても、ちゃ~んと信用するからね。ま、師央は、文徳がかわいがってるんだし? ってことは、おれもかわいがるべきだよね~」
「あ、ありがとう、ございます」
「しかし、師央って呼びやすいんだよな。ニックネーム付ける必要がないっていうか」
「付けてもらわなくていいです」
 兄貴が、ポンと手を打った。
「じゃあ、そろそろ、お開きにしようか。煥、練習に戻るぞ。師央も一緒に来るか?」
「行ってみたいです!」
「鈴蘭さんは、どうする?」
「わたしは……」
「鈴蘭ちゃんは、おれとデートしない~?」
 言いながら、理仁が師央を離れた。鈴蘭に近寄ろうとする。危険を察した鈴蘭は、今度はオレを盾にした。
「お断りします!」
「照れちゃって~」
「照れてません! 煥先輩、何とかしてください!」
「何でオレが?」
「文徳先輩はおもしろがるだけなんです!」
 いや、しかし、どうせよと?
「鈴蘭ちゃ~ん、一緒に帰ろう~」
「イヤです! 長江先輩よりは、煥先輩のほうがまだマシです!」
「おい、今、オレまでまとめてけなしただろ?」
 いきなり、鈴蘭がオレのネクタイを引っ張った。とっさのことで面食らって、前のめりに引き寄せられる。白い小さな顔が近い。鈴蘭のまつげの長さに気付いて、ドキッとする。そのまま心臓が走り出す。
 鈴蘭は早口でささやいた。
「わたし、ほんとに、ああいう人ダメなんです。絶対、二人きりとか無理です。煥先輩、バンドの練習があるんですよね? わたし、図書室で待ってます。練習が終わったら、迎えに来てください」
 風が吹いた。鈴蘭の黒髪がオレの頬に触れた。甘い香りがした。
「な、何で、オレが?」
「ボディガード役、お願いします。じゃなきゃ、両親がうるさいんです」
 鈴蘭は、言うだけ言って、身をひるがえした。あっという間に屋上を出ていく。
 理仁が口笛を吹いた。
「見せつけてくれるじゃん。ここからだと、角度的に、チューしてるようにも見えてさ~」
 ふざけんなよ。一方的に、わーっと、まくしたてられただけだ。オレは何もしてない。というか、何もできなかった。
 オレは右手で、顔の下半分を覆った。息が熱い。頬が熱い。顔が赤いのが自分でわかる。鈴蘭の青い目が、あんなに近くにあった。怯えてなかった。媚びてなかった。嫌ってなかった。ただまっすぐに、オレは見つめられていた。
 師央の言葉を、不意に思い出した――煥さんは、もうすぐ、必ず恋をします。