運命というものがあるのなら、それは、多数の枝を持つ大樹のような姿をしているに違いない。何かの本で、そんなふうに読んだ。
少年は、誓った。
「ぼくは、変えてみせる」
苦しくて、悲しくて、寂しくて、涙の流し方も忘れるような、この十五年間を。
運命の大樹の枝が分かれる可能性があるならば、幸せな未来へと分かれてゆく枝があるならば、何としても、その幸せな未来がほしい。
リビングに硝煙の匂いが立ち込めていた。汚れた絨毯に身を伏せた少年は察していた。日常はもう戻ってこない、と。
「だから、行け。行って、戦え」
伯父は少年に告げた。その目からは、急速に命の灯が消えつつある。
「でも、このままじゃ……」
「このままじゃ共倒れだ。私のことはいい。行け、師央《しおう》」
伯父は大きな手のひらで少年の頬を包んだ。少年は、泣いてはいなかった。泣きたいと思った。
純白の宝珠が少年の手の中でまたたいた。急かすかのように、チカチカと、せわしないリズムだ。
伯父の手のひらが宝珠に触れた。彼はささやいた。
「白獣珠《はくじゅうしゅ》よ、応えよ。この者、師央を過去へ連れてゆけ。代償は、ここにある」
伯父は自らの胸を指し示した。まだ動く心臓を収めた、左の胸を。
白獣珠が、猛虎が牙を剥くようにギラリと輝いた。一条の白い光が伯父に突き刺さる。少年が目を見張った。
「伯父さ……」
少年の姿が掻き消えた。白獣珠もまた、少年の手にいだかれて去った。
ひとり残された伯父は、すでに息絶えている――。
――少年は、ひび割れたコンクリートに膝をついた。
「嘘だ。力不足だなんて、そんな」
赤ん坊の声が聞こえている。父も母も倒れ伏している。
母が、赤ん坊を胸にかばっていた。父は、母と赤ん坊とをまとめて抱きかかえていた。二人の体の下に、血だまりが広がっていく。
「パパ! ママ!」
少年は叫んだ。昔から、そう呼んでみたかった。甘えたふうの呼び方をしてみたかった。応える父母の声は、ない。ただ、赤ん坊だけが泣いている。幼い日の少年自身だけが、命の限りに泣き叫んでいる。
「師央、なんだな……?」
かすかに微笑む若き日の伯父の胸にも、今しがた被弾した銃創がある。シャツが赤く濡れていく。伯父は、ガクリと、くずおれた。
「伯父さんっ」
十五歳のあの日に一度。十五年の時をさかのぼって、再び。どうして二度も伯父の死に際を見なくてはならない?
運命は修正可能なはずだ。未来を決める分岐点が必ずあるはずだ。幸せな未来を生きる一枝《ひとえだ》を、絶対に手に入れたい。
それなのに、少年は救えていない。父も母も。それどころか、生存するはずの伯父まで死なせてしまった。
「イヤだ。こんな運命は、イヤだ!」
銃声。
少年はその瞬間、誰かの腕と胸に抱えられた状態で地面に叩き付けられている。少年をかばった男は、顔を上げた。緩く波打つ髪の下で、緑がかった目が微笑んだ。
「だから、行きなさい。行って、戦って」
「あなたは?」
「カイガ、と覚えておいてください」
男は少年の持つ白獣珠に何事かをささやいた。少年の姿が、白い光に包まれて消えた。男はまた、自らの持つ宝珠に語りかけた。
「玄獣珠《げんじゅうしゅ》、最後の頼みです。文徳《ふみのり》くんを蘇生して。この一枝には、彼の存在が必要だから。代償は、ぼくの命」
黒い光が弾けた。男は絶命した。
夕暮れどきを川沿いで過ごすのが好きだ。五月に入って、気候も温かくなった。
柔らかい草の上に引っくり返る。空は半分、オレンジ色。東のほうは冷めた色をしてて、白い半欠けの月が引っ掛かってる。
「上弦の月、waxing moonか」
オレは、つぶやいてみる。体の内側と右耳から、自分の声が聞こえた。左耳はイヤフォンを着けてる。イヤフォンが流す轟音には、まだ詞がない。そろそろ詞をつけなきゃいけないんだが。
「こんなんじゃ陳腐、だよな」
思い付かない。オレの日常はひどく乾いてて、刺激がないわけじゃないけど、下らない。
隣町との境目には大きな川が流れてる。川沿いは、芝生敷きの広場だ。平日の昼は、年寄りや主婦の散歩コース。休日になれば、子どもらの遊び場。
でも、昼間だけだ。西日が差し始めると、変わる。すっと、ひとけがなくなる。
川沿いは不良がたむろしますよ、暴走族が集まってくるから良い子は行っちゃダメですよ、近くを通るときも絶対に気を付けなさい。そう言われてる。
つまり、西日が差し始めると、主役交代。オレみたいなのが、川沿いの芝生を占領する。
噂ってのは、ある意味、便利だな。噂のおかげで、この時間帯のこの場所は、誰も近寄ってこないから気楽だ。
オレは昔から、パッと見、怖がられていた。制服を着るようになって、ますますだ。
生まれつき、銀色の髪、金色の瞳。首に掛けた銀の鎖のネックレス。両耳に着けたリングのピアス。着崩したブレザーの制服は、肩章が付いてるせいで軍服っぽい。その堅苦しさが嫌いで。だから、まじめに着たくない。
オレが通うのは、襄陽《じょうよう》学園高校。オレは二年生になったばかりだ。
襄陽には、スポーツ特待生もいれば優等生もいる。芸能系のコースもある。いろんな生徒がいる学校だが、いちばん有名なのは、オレたちのことか。瑪都流《バァトル》と呼ばれる集団で、オレの兄貴がそのリーダーで。
白い目でじろじろ見られることも、そのくせ目が合った瞬間にそっぽ向かれることも、、もう慣れた。そして、妙なやつらに襲撃されることにも。
「やっぱ今日もいやがった! 瑪都流の銀髪野郎! 最強って肩書、いただきに来たぞ!」
肩書なんて、名乗ったことない。
「返事しろや、銀髪の悪魔!」
そんな通り名も、名乗ったことない。
左耳のイヤフォンが鋭いギターを鳴らして、フィニッシュを待たずに、オレは音楽プレイヤーの電源を切る。
オレが立ち上がるのよりも先に、気配がある。鋭く空気を切り裂いて飛来する、気配。オレはとっさに、草の上を転がった。
銃声は、スパンと軽かった。オレの頭があった場所に、BB弾が、草を散らして土に埋まり込んでいる。
改造エアガンか。またかよ。うんざりしながらも、オレは素早く起き上がる。
オレを襲撃してきたのは、三人。意外に少ない人数だ。でも、手慣れてる。夕日を背に、土手の上からの狙撃。オレンジ色の光がまぶしい。連中はシルエットになっている。顔が見えない。男二人、女一人ってことだけは、わかる。
改造エアガンを構えてるのは、女だ。威勢のいい啖呵が切られた。
「あたしらの先輩、あんたら瑪都流に潰されたんだよね。覚えてるでしょ、先月の」
先月、オレたちは、この町に居着いてた暴走族に襲撃された。ケンカが強いとかバイクが速いとか、危ういことをやる度胸があるとか、とにかくイキリたがるばっかりの連中で。
襲われたら反撃するしかないじゃねぇか。そして、ケンカするからには、負けてやる理由なんかないだろ。
オレの右脚を狙って、BB弾が飛んできた。難なくかわす。
「敵討ちってわけじゃないけどさぁ、あたしたちもも自分らの目と手で確認したいし?」
女の狙撃の腕は悪くない。でも、オレに当てようなんて思うなよ。相手が悪いぞ。確認したいのは、たぶん、オレの実力のことだ。普通の戦闘力と、普通じゃない能力と。
男二人も銃を構えた。たぶん、女のと同じ改造エアガン。射程距離と殺傷能力を上げてある。銃刀法違反ってレベルだと思う。
男のうち一人、背の低いほうが笑った。
「いつも、あんた一人で戦うんだって? んで、ハンパなく強いんだって? マジなら見せてほしいんだよね。銀髪の悪魔が、悪魔って呼ばれる理由」
悪魔、か。オレの戦闘能力が人並み外れているから? それとも、相手を打ちのめすときは、徹底してるから?
「あまり派手なケンカはしたくない」
ザワッと逆立つ銀髪。手のひらが熱く光り始める。夕日のオレンジ色を切り裂くような、冴え冴えと冷たく白い光だ。オレの目の前で、白い光は凝縮して、壁を形づくる。これがオレの能力、障壁《ガード》だ。
背が高いほうの男が口笛を吹いた。
「なるほどねぇ。それが噂の異能ってやつか。こっちは銃三丁だからね。いくら銀髪の悪魔でも、素手じゃないよね」
言うが早いか、三人は発砲した。
ピシ。ピシピシ。
手応えは、ごくごく軽い。淡く発光する障壁《ガード》がBB弾を受けた。着弾点だけ、一瞬、チカリとまたたく。BB弾は、焼き切れるように粉砕した。残骸が芝生に落ちる。
ピシピシと軽い音が連なる。おもちゃの銃弾は、狙いだけは完璧だ。左胸と頭部。でも、無駄だな。本物の銃弾でさえ防ぐオレの障壁《ガード》をおもちゃの鉄砲で破ろうなんてのは、無鉄砲もいいところだ。
脚のバネをたわめる。一気に飛び出して、距離を詰めるために。このまま突っ込んで、一撃ずつで沈めてやる。抵抗するなよ。ケガさせるのは好きじゃないんだ。
そのとき、だった。横合いから、声が割り込んだ。
「あなたたち、何をしているの!」
女の声。よく通る声だった。キレイな響きに、一瞬、気をそがれた。姿を見た。襄陽の制服を着ている。着方がまじめだから、進学科か?
「って、おい、こっちに来るな!」
女が、すたすたと近寄ってくる。オレと連中の間に割り込むみたいに。
そして、ほぼ同時に。
人が、現れた。
「え?」
オレと連中の、ちょうど間あたりに。女が歩いて行こうとした先に。
その場の全員が、固まった。
忽然と現れた、そいつ。オレと同い年か少し年下くらいの男だ。
「な、何なんだ?」
栗色の髪に驚かされた。兄貴と同じ色だ。というか、オレの家系の髪の色だ。オレを除く血縁全員の。
裂けて汚れた服には、すすや血が付着している。火薬の匂いを感じた。まるで、たった今まで戦場にでもいたみたいだ。
でも、なぜ、いきなり? 目の錯覚? じゃないよな。ここにいる全員が見た。見て、驚いて、固まっている。
そいつはうつむいていた。胸元に何かを握りしめている。
沈黙。
そいつが動いた。はぁ、と大きな息をついた。そして、顔を上げた。
オレとそいつの目が合った。
ドクリ、とオレの心臓が騒ぎ出した。
似てる。切れ長の目。通った鼻筋。額や顎の形。兄貴に似てる。それだけじゃない。兄貴よりももっと、オレ自身に似てる。
不意に、オレの胸でペンダントが熱を持った。ドクドクと、高鳴る鼓動に似たリズムで打ちながら告げる――因果の天秤に、均衡を。
そいつが、まばたきをした。声を発しようとして、咳をした。それがひどく人間くさくて、オレは光の障壁《ガード》を消しながら腕を下ろした。
そいつが再び口を開いた。オレを見つめて、言った。
「あなたが、伊呂波《いろは》、煥《あきら》?」
銀髪の悪魔でもなく、瑪都流の最強戦士でもなく、肩書なしのオレの名前を、そいつは呼んだ。
「確かに、オレが伊呂波煥だが?」
そいつの顔に、パッと笑みが広がった。キラキラした笑顔ってやつだ。子どもっぽいくらい純粋そうな顔。犬だったら尻尾を振りまくってるはずの。
「会いたかった!」
「は?」
何なんだよ? オレ、いつ、こんなのに懐かれたっけ?
「会いたかったんです、パパ!」
「なっ、パパ!?」
「ぼくは、未来を変えるために! パパの時代へやって来たんです!」
「い、意味わかんねぇ!」
「パパ!」
「ちょっ、おい、来るな!」
そいつは屈託なく飛び付いてこようとした。バカか? オレに気安く触るな。飛び付かれる直前、そいつの額を右手だけで押し返す。
「パ、パ……」
「誰が?」
「あなたが」
「誰の?」
「ぼくの」
「おまえ、いくつだ?」
「十五歳、高校一年生です」
「オレは高二だ。ガキはもちろん、女を作るつもりもない。いろいろ無茶があるだろ」
「ですから、ぼくは未来から……」
「黙れ」
頭痛ぇ。何なんだよ、こいつ?
「状況の説明を……」
「黙れ」
オレは、飛び付いてきそうなそいつを押さえたまま、ため息をついた。
と。
感じる。気配と音を。
「パ……」
「だから黙れ。来る」
バイクのマフラー音は、まだ遠い。足音が近い。オレは振り返った。赤い特攻服の連中が、いた。ざっと数える。十三人。
オレの背後から忍び寄る予定だったらしい。それより先に、オレが気付いた。連中は開き直った。走って距離を詰めてくる。手に手に武器を持っている。あの悪趣味な赤は、隣の町のやつらだ。暴走族と名乗ってイキってるやつら。
厄介なことになった。エアガンの連中と、赤服の連中。挟み撃ちかよ?
と思ったら、違った。
「煥、あいつら面倒だぜ! 気を付けろ!」
エアガンの連中のうち背の高い男が、オレに注意を促しながら駆けてくる。少し遅れて、残りの二人も。全員、襄陽の生徒だ。
優等生風の女が声をあげた。
「寧々《ねね》ちゃん! またこんな危ないことしてたの!」
エアガンの女が反応する。
「お嬢こそ、首突っ込んでくるなんて。てか、こっち来て!」
「えっ、えっ、何? あれ、尾張《おわり》くんも一緒なの?」
背の低い男が優等生風の手を引いた。
「安豊寺《あんぽうじ》、こっちだ! 危ねえって言ってんだよ!」
三人は知り合いらしい。
オレは背の高い男に向き直った。顔を見たことある気がする。
「キョトンとするなよ、煥。去年も今年も同じクラスだろうが! 順一《じゅんいち》だよ、尾張順一」
「あ、そう」
「クールだな、相変わらず」
「エアガンぶちかましてくる相手に、愛想ふりまくか?」
「すまんすまん。こいつらに乗っかってみた。敵討ちごっこというか」
「迷惑だ」
ケロリとした表情と口調。ああ、思い出した。移動教室がある休み時間に起こしてくれるやつだ。
「煥、さっきのは謝る。てか、謝らせてください。その上で話があるんだけど、後でな」
順一が顎をしゃくった。指し示した先で、赤服の連中が、間合いを挟んで立ち止まった。真ん中の男がリーダー格らしい。ニヤニヤしながら口を開いた。
「瑪都流の銀髪野郎に烈花《れっか》の残党! 締めてぇやつらが揃ってやがる! ラッキーだな、おい!」
順一がニヤリとして、ささやいた。
「共同戦線ってことで、いいか?」
「信用できるんだな?」
「おれら、むしろ瑪都流に入れてもらいたい。後から詳しく話す」
「兄貴に話せ」
「了解」
赤服のリーダーが吠えた。
「内緒話してんじゃねぇよ! 今からテメェらを潰すって言ってんだよ!」
隣町の赤服の連中とは、何度も戦ってる。ケンカをふっかけられるんだ。オレが「瑪都流の銀髪野郎」だという理由、それだけで。
順一が烈花の女にエアガンを渡した。
「寧々、後ろから援護しろ。おれの銃も使え。貴宏《たかひろ》も寧々に銃を渡せ」
「了解。寧々、お嬢を守ってろよ」
「わかってる」
オレは、栗色頭の謎のやつを振り返った。
「おまえも、ここでじっとしてろ」
「あ、えっと、あの、これは?」
「ただのケンカだ」
「ケ、ケンカ?」
そいつは目をパチパチさせた。よく見たら、目の色もだ。兄貴と同じ、赤みがかった色。伊呂波の家系の目の色だ。
オレの背中に、手が触れようとした。迫る気配にとっさに反応して、払いのけた。軽すぎるような手応え。
「痛っ」
女の声。しまった、と気付く。オレに触れようとしたのは、あの優等生風の。
「お嬢、大丈夫!?」
「大丈夫、ビックリしただけ。でも、いきなり暴力的なことをするなんて。あなた、ちょっと失礼ですよ!」
小柄な女がまっすぐにオレをにらんだ。
「今のは、すまん。ただ、オレに触ろうとするな。苦手なんだ」
にらんだ目が、くるっと表情を変えた。驚いた、みたいな。
「謝るんだ」
不良なのに、という副音声が聞こえた気がした。オレは不良だと名乗ったことはない。勝手にまわりがオレにレッテルを張る。
「とにかく、足手まといだ。そこでじっとしてろ」
「ケンカするんですか? 暴力的なことは、道徳に反してます!」
驚いた目が、またオレをにらんでくる。忙しい女。しかも面倒くさい。
「この状況じゃ、戦うのは避けられない。見たくなきゃ、下向いてしゃがんでろ」
「あなたねぇ、人に向かって命令口調? 友達なくしますよ?」
友達? 最初からいねぇよ、そんなもん。瑪都流だからって理由の仲間意識を共有できる相手は一応、数人いるが。
「小言は後で聞いてやる。今は時間がない。バイクの援軍が来る前に、ここのやつらを倒す。援軍も多くはない。暴れるぜ、烈花」
低く言い放てば応える、吠えるような三人の鬨の声。
体を動かしてる間は、いい。研ぎ澄まされたトコロに行ける。オレが、本当のオレになる。退屈な日常が消える。
「行くぜ!」
オレは地面を蹴った。
口ほどにもなかった。
ケンカは、日が沈む前に片付いた。烈花の残党の三人は、それなりに強かった。
オレたちが烈花と戦ったとき、こいつら、何でいなかったんだ? 相当な戦力だろうに。そう思ってたら、順一が先回りして答えた。
「もともと自滅するつもりだったらしい。幹部がさ、何かヤバいことやってたらしくて。一発でつかまるような、危険なこと。それに関わってなかったメンバーは、このとおり。何も知らされないまま放逐、ってわけ」
ヤバいこと、か。銃か薬の売人でもやってたのか。
「改造エアガンだって、十分ヤバいんだが。あの殺傷能力は完全に違法だ」
何にしても、行くあてのない順一と貴宏と寧々が瑪都琉に入りたいのは事実らしい。入るも何も、オレたちは暴走族じゃないってのに。群れてグループの名前を看板にしたがるやつの気が知れない。
「面倒くせえ。兄貴と話せ」
そういうわけで、学園に戻ることになった。兄貴は今ごろ、生徒会室だ。
間違いなく、兄貴は学園屈指の有名人だ。瑪都琉のリーダーにして、生徒会長。オレにとっては、にこやかな暴君でしかない。毎度毎度、どれだけ振り回されてることか。
背の高い順一と、低い貴宏。似てないが、兄弟らしい。両方とも髪はオレンジ色。小柳寧々は、順一と貴宏の幼馴染。黒髪のショートカット。前髪に一房、オレンジ色のエクステが交じってる。
元・烈花の三人は、まあいい。用件はわかった。遊びをふっかけてきたことも許す。今回のケンカ、あいつらの加勢のおかげで、無傷で済んだし。
問題は、こいつだ。
「おい、おまえ」
「ぼ、ぼくですか?」
「何ビビってんだ?」
「い、いえ、別に、その」
笑うわけじゃなく、目を細めてみせる。赤みがかった茶色の視線が逃げる。
「会いたかった相手が、実は暴力的な男で? それで驚いて、ビビってる? おまえの『パパ』はもっと優しい男なのか?」
「わ、わかり、ません。ぼくは、会ったこと、なくて」
父親に会ったことがない? ほんとに、何なんだ、こいつ?
と。
背中に触れようとする手のひらの気配を感じて、オレは払いのけるんじゃなく、飛びのいた。振り返りながら言う。
「条件反射で攻撃してしまう。さわるなって言ってるだろ」
お嬢、と呼ばれていた女。優等生風に、まじめに制服を着てる。
初めて、まともに顔を見た。黒くて長い髪、白くて小さな顔。作り物かよ? と思うくらい完璧な顔立ち。でも、違う。生き生きと輝く、大きな青色の目。まっすぐな怒りの表情。ふと視線を惹きつけられた唇は柔らかそうで、オレは思わず息を呑んだ。
名前、呼ばれてたよな。確か、安豊寺って。
「安豊寺鈴蘭《あんぽうじ・すずらん》です。条件反射で攻撃って、どれだけ暴力的なの? 信じられない。さっきだって、あんなに蹴ったり殴ったり」
一瞬とはいえ見惚れて損した。口うるさいやつは嫌いだ。
「やらなきゃ、こっちがやられる。不快なら見なくていいと忠告した」
「不快でも、見る必要があると思った! 立派な暴行罪ですよ! 通報されたら……」
「この河原でのケンカは、通報されない。部外者が口出しするな」
安豊寺が一歩、オレに近付いた。もう一歩、さらに一歩。結局、触れられる近さにまで。
「後ろからじゃダメでも、正面から近付けば、いいんですね」
どういうつもりだ?
いきなり、安豊寺に足を踏まれた。意外すぎて驚いた。
「わたし、頭に来てるの。平気で人に暴力を振るうなんて。攻撃されたら痛いでしょ?」
足を踏んでるのは攻撃のつもりか? このくらい、痛くもかゆくもないんだが。
それにしても小さいんだな、女の足って。すり切れたオレの革靴の上に乗った、安豊寺の革靴。一年なんだよな。ピカピカといってもいいくらいだ。
「小言は……」
「後で聞くって、さっき言ってました」
面倒くせぇ。
「……生徒会室で聞く」
オレが、じゃなくて、兄貴が。たぶん兄貴なら、安豊寺を丸め込めるから。
「というわけで? 煥《あきら》ひとりの手に負えないから、全員ここへ連れて来た?」
兄貴はクスリと笑って、愛用の椅子から立ち上がった。肘置きとキャスターの付いた椅子は背もたれの角度とクッションの質がいいらしい。生徒会室に兄貴が持ち込んだ私物だ。
容姿端麗、成績優秀。口を開けば、弁舌さわやか。スポーツも、かなりできる。趣味はバンド活動で、ギターと作曲が得意。
しかも兄貴は、生徒会長、且つ、暴走族と呼ばれる瑪都琉のリーダーだ。去年から、襄陽では髪の色が自由になった。その案を強引に押し通したのが兄貴だ。全生徒からの支持は、そこで手に入れた。
オレたちが生徒会室を訪れたとき、兄貴は仕事をしていたわけじゃなく、バンドスコアを書いていた。新曲のアレンジだ。ついでに詞も書きゃいいのに、なぜかオレに押し付けてくる。
兄貴はバンドスコアのノートを閉じて、元・烈花の三人を順に見た。
「尾張順一くんと貴宏くんの兄弟。それから、小柳寧々さん。きみたちのことは、烈花の総長だった男から聞いてる。面倒を見てやってほしい、とのことだ。歓迎するよ」
話、ついてたのかよ。
ホッとした顔で、三人は兄貴に挨拶した。兄貴も笑顔で受け答えする。基本的に、兄貴はいつも笑ってる。オレと正反対だ。
オレは兄貴に、赤服とのケンカのことを報告した。兄貴は肩をすくめた。
「ご苦労さまだったね。緋炎《ひえん》は最近、見境がないな」
ああ、そういえば、赤服の連中は緋炎とかいう名前だった。自他ともに認める暴走族だ。
「近々報復があるかもしれない」
「煥の言うとおりだ。きみたちは基本、三人で行動して。一人にならないようにね」
兄貴の指示に、尾張兄弟と寧々はうなずいた。
三人には、明日、瑪都琉の連中を紹介する。そういうことで、話が終わった。三人が生徒会室を出て行った。