立ったままなので、手帳を片手で開き、数字をメモしていく。のちに確報が文書で展開されるとはいえ、この速報値が今日の仕事に役立ったりするのだ。
しかし今日は、周囲のひそやかな会話が気になってしかたなかった。
「六月人事に増井人事部長の名前があったんだけど、そんな噂あったっけ?」
「いや、いきなりだった。しかも今さら関連会社の微妙なポジションって」
「なあ。もう昇進も打ち止めだし、おとなしく本社で役職定年を待ってればよかったのに、なにやらかしたらそうなるんだ」
怖い怖い、と肩をすくめる。あながち冗談でもなさそうなのは、同じ組織にいる以上、明日は我が身という意識があるからだろう。
とはいえ、六月は大きく組織が動き、人事異動も増える月だ。朝イチでイントラネットに掲示された名簿も三ページにわたっていた。
人事部長の急な異動は、ちょっと奇妙ではあったものの、多くの従業員にとってはその中のひとつでしかなく、数日のうちに、人の口の端にものぼらなくなった。
そんなある日、宮野さんが私に声をかけた。
「生駒ちゃん、お昼、食堂行かない?」
「え、珍しいですね?」
彼女もわりと外食派のはずだ。そして私はいつもひとりで本を読みながら食べるため、誘われることもめったにない。
宮野さんは「それがねえ」ところころ笑った。
「キャンペーンやってるんだって。生駒ちゃん、美容に興味ある?」
私は彼女とフロアを出ながら、「すみません、全然……」と正直に言う。廊下はエレベーター待ちの人たちでにぎわっていた。
「よかった! 当選したら商品ちょうだい」
「応募すればいいんですね、承知です」
九階に到着すると、食堂の行列を避けたところにいた数名の女性がこちらに手を振った。ひとりは出納課の〝かほちゃん〟こと伊勢崎さんだ。顔を見るだけで冷たい声が頭をよぎり、胃がキリキリする。
「お待たせー。うちの生駒ちゃんつれてきたよ」
「宣伝課の生駒です。お邪魔します。あの、いつもお世話になってます、すごく」
後半は伊勢崎さんに向けた挨拶だ。彼女は「こちらこそ」と明るく笑った。
仕事のときもこのくらい優しかったらいいのに……、いや違う。この人にあの冷ややかな声を出させるほどに、伝票の提出の遅れというのは迷惑なんだろう。来月こそは、課員の意識を徹底して、時間内に提出しなければ。
しかし今日は、周囲のひそやかな会話が気になってしかたなかった。
「六月人事に増井人事部長の名前があったんだけど、そんな噂あったっけ?」
「いや、いきなりだった。しかも今さら関連会社の微妙なポジションって」
「なあ。もう昇進も打ち止めだし、おとなしく本社で役職定年を待ってればよかったのに、なにやらかしたらそうなるんだ」
怖い怖い、と肩をすくめる。あながち冗談でもなさそうなのは、同じ組織にいる以上、明日は我が身という意識があるからだろう。
とはいえ、六月は大きく組織が動き、人事異動も増える月だ。朝イチでイントラネットに掲示された名簿も三ページにわたっていた。
人事部長の急な異動は、ちょっと奇妙ではあったものの、多くの従業員にとってはその中のひとつでしかなく、数日のうちに、人の口の端にものぼらなくなった。
そんなある日、宮野さんが私に声をかけた。
「生駒ちゃん、お昼、食堂行かない?」
「え、珍しいですね?」
彼女もわりと外食派のはずだ。そして私はいつもひとりで本を読みながら食べるため、誘われることもめったにない。
宮野さんは「それがねえ」ところころ笑った。
「キャンペーンやってるんだって。生駒ちゃん、美容に興味ある?」
私は彼女とフロアを出ながら、「すみません、全然……」と正直に言う。廊下はエレベーター待ちの人たちでにぎわっていた。
「よかった! 当選したら商品ちょうだい」
「応募すればいいんですね、承知です」
九階に到着すると、食堂の行列を避けたところにいた数名の女性がこちらに手を振った。ひとりは出納課の〝かほちゃん〟こと伊勢崎さんだ。顔を見るだけで冷たい声が頭をよぎり、胃がキリキリする。
「お待たせー。うちの生駒ちゃんつれてきたよ」
「宣伝課の生駒です。お邪魔します。あの、いつもお世話になってます、すごく」
後半は伊勢崎さんに向けた挨拶だ。彼女は「こちらこそ」と明るく笑った。
仕事のときもこのくらい優しかったらいいのに……、いや違う。この人にあの冷ややかな声を出させるほどに、伝票の提出の遅れというのは迷惑なんだろう。来月こそは、課員の意識を徹底して、時間内に提出しなければ。