メッセージの宛先はラフ先生で、思い描く相手の顔は朝綺先生。不思議な感じがした。リアルの知り合いとピアを組んでいるなんて。
 ネットの世界は厳正に管理されている。リアルの戸籍と同じくらいきちんとしたIDを提示しなければ、一文字の閲覧も許されない。
 ピアズのルールは匿名性だ。現実の空間を跳び越えて、誰もが出会える世界。だからこそ、お互いに正体を隠さなければならない。個人を特定することは、追放に値するルール違反だ。
 朝綺先生との距離感は特別すぎる。テスターのバイトじゃなかったら許されない。壮悟くんがシナリオを書いていることも、本来だったら知りようがない。
 コンピュータがピコンと効果音を鳴らした。朝綺先生から返信が来たんだ。了解、という一言。朝綺先生もそっけない。
「子どもみたい。あたしも朝綺先生も、みんなも」
 幼いころ、絵本に出てくる山姥《やまんば》が怖かった。おびえて泣いて、熱が上がった。今も同じだ。物語に引きずられて熱を出した。本気で覚悟しなければ向き合えない。それほどのチカラを持つ物語に、あたしは心を奪われている。
 投げ出したりするもんか。怖くて苦しいけれど、あたしは向き合うと決めた。
 あたしは作曲ソフトを起ち上げた。
 音のない夢の中で、曲を聞いた気がする。あのサウンドを完成させたい。
 BPMは360。イントロとCメロだけ、120に減速する。ギターの伴奏は、わざと歪ませていたエフェクトを、太くて柔らかなレスポール本来の音に戻す。ハイキーで走るシンセサイザーの効果音もメタリック・トーンをやめて、かすれる竹笛の音色に。
 編曲でいつも苦戦するのはベースとドラムだけれど、今回は強いイメージが湧いた。冒頭にベースの音がほしい。ドゥン、と優しく低い響きは、心臓の鼓動に似ている。ドラムも中低音のタムをたくさん使う。熱い血潮が駆け巡る音に、それは近いから。
 あたしの書く曲は、当然ながらあたしのカラーになる。だけど、今回の曲は少し違う。あたしの体を動かして、あたしじゃない誰かが書いている。あたしひとりでは書けない唄が生まれようとしている。
 書き直した音源を再生してみる。速いBPM特有の華やかさと、丸みを帯びたギターサウンドのたくましさ、和楽器がかもし出す凛々しさ。
 ベースとドラムが耳に残る。ここにあたしの声が乗るんだ。あたしに歌える? パワー不足じゃない?
「歌ってみないと、わかりませんね」
 サビの終わりの、ドラムソロ。普通のフィルインよりも長く、強く主張するフレーズ。ラストに華やかなシンバルが咲く。
 夕食が来るまで、繰り返し聴いていた。制約だらけの夕食の後、シャワーを浴びた。ログインまでの時間をどうしようかな、と思っていたときだ。
「優歌ちゃん、今いい?」
 隣の病室の望ちゃんが、点滴の台を引きずって訪ねてきた。
「八時くらいまでなら大丈夫ですよ」
「それより前に帰るよ。八時には布団に入ってないと、叱られるもん。熱、早く下がって、よかったね」
「ありがとう。心配かけちゃいましたね」