江戸の町は、どこか浮足立っていた。
戦の波が押し寄せてくるんじゃないか。日本じゅうが戦争状態になるんじゃないか。国内で争ううち、欧米に隙を突かれるんじゃないか。日本は欧米に占領されてしまうじゃないか。いろんな不安が渦巻いている。
江戸の千駄ヶ谷《せんだがや》にある、新撰組ゆかりの屋敷で、沖田さんは療養している。
違う。療養とはもう呼べないかもしれない。沖田さんの病状は、船で江戸にこぎ着けたころから急激に悪化した。快復は見込めないと、医者はさじを投げた。
「ボクが死んだら、墓参りは来なくていいよ。照れくさいんだよね。花とか、そういうのいらないから、ボクのことは忘れて、みんな元気でやってて。それでいいよ」
沖田さんは微笑みながら言った。
お見舞いに来た近藤さんは、涙をこらえる表情だった。ケガから復帰して、新たな戦場、甲州へ向かおうとする日のことだ。
「弱気なことを言うな、総司。甲州の戦をさっさと終わらせて、戻ってくる。しっかり養生して、元気になれ。春が過ぎれば、すぐ夏になって暑くなる。精をつけておかんと、つらいぞ」
沖田さんは、うなずきながら聞いていた。突然、くしゃりと顔を歪ませて泣き出した。
「ゴメンなさい、近藤さん。役に立てなくて。おれには刀しかないのに、こんな弱い体になっちまって……」
近藤さんの大きな手が、沖田さんの頭を撫でた。わしわしと、父親が子どもにするようなやり方で。
「泣くヤツがあるか。今生《こんじょう》の別れでもあるまいし。すぐに戻るからな。うまいものを食って、よく休め」
沖田さんは、いやいやをするように首を振った。近藤さんの肩にすがって泣いて、泣きじゃくって、やがて、泣き疲れて気を失うように眠ってしまった。
シャリンさんがつぶやいた。
「もう、やだ。見てらんない」
声が震えていた。たぶん、泣いている。
ラフ先生もニコルさんも、何も言わない。二人は新撰組の史実を知っている。だからこそ、このエピソードの結末を言葉にできずにいるんだ。
暗い予感が、アタシの胸にもある。
近藤さんは沖田さんを布団に寝せ付けると、アタシたちに向き直った。
「幕府から新撰組へ出撃要請が下った。新撰組は、甲陽鎮撫隊《こうようちんぶたい》と名を改める。幹部の皆も偽名を使って正体を隠す」
甲陽鎮撫隊。つまり、甲州での戦を収めるための部隊。
マップが自動的にポップアップした。現在地と甲府城と、二点を結ぶ甲州街道。甲陽鎮撫隊の進撃ルートが赤く表示される。
アタシは近藤さんを見上げた。
「甲府城という場所で戦うんですか?」
「ああ、そうだ。新政府軍より先に甲府城を取るのが最初の目標。甲州街道は、西から江戸に至る幹線の一つだ。オレたちは甲府城に拠って、新政府軍を撃退する」
「新政府軍は大軍なんでしょう? 大変な戦いになるんじゃないですか?」
「心配には及ばんよ、ミユメ。勝《かつ》先生が軍備の補強をしてくれた。軍資金も大砲も銃も十分にある。なあ、斎藤?」
水を向けられた斎藤さんは、スッと視線をそらした。
「……甲州は山だ。雪が解けきっていないのが不安だ。でも、出撃要請には従う。従わなきゃ、いけない」
奥歯にものが挟まったような言い方だった。何ともいえない違和感。斎藤さんは、隠しごとをしている?
シャリンさんがぶっきらぼうに訊いた。
「斎藤、勝先生って何者?」
「勝麟太郎《かつ・りんたろう》。号で呼ぶなら、勝海舟《かつ・かいしゅう》。幕府の軍事と外交の重要人物だ」
シャリンさんが腕組みをした。
「勝海舟なら、聞いたことあるわ。斎藤の伝書バトの相手が勝海舟ってわけ?」
「えっ?」
ラフ先生とニコルさんが同時に声をあげた。斎藤さんが顔を背ける。シャリンさんが小首をかしげた。
「斎藤がたまに手紙をハトに持たせて飛ばしてるの。誰かに何かを報告してたんだろうけど、その相手が勝海舟なんじゃないかって。ラフもニコルも、何を驚いてるのよ?」
確かに、斎藤さんのそばにはよく白いハトがいる。沖田さんルートのマスコットキャラクターは黒猫のヤミで、向こうは白いハトなんだなって、そういう存在だと思っていた。
ラフ先生は斎藤さんを凝視していた。
「斎藤、オマエ、勝がつながってるってことは、相当な量の情報を持ってるってことだよな? 旧幕府軍でいちばん先進的で、むしろ予知能力みたいな勢いで時代の情勢を読んでいたのが勝海舟だ。勝にとって新撰組がどういう扱いなのかわかってて、今まで?」
ニコルさんは眉間を指でつまんだ。
「なるほどね。時司だからじゃなかったんだ。一くんがいろいろ知ってる理由。繰り返し生きてても記憶はないって言ってたもんね。裏にいたのは勝海舟か。これは相当、残酷な話だよ。一くん自身、そろそろ本当にわかってきただろう?」
アタシには意味がわからない。シャリンさんと目が合った。シャリンさんも、ハテナを吹き出しに浮かべた。
近藤さんがポンと手を打った。
「さあ、グズグズしていられない。斎藤、シャリン、ニコル。そろそろ暇を告げよう。新撰組、改め、甲陽鎮撫隊。必ずや甲府城を取り、江戸の町を守ろう!」
戦の波が押し寄せてくるんじゃないか。日本じゅうが戦争状態になるんじゃないか。国内で争ううち、欧米に隙を突かれるんじゃないか。日本は欧米に占領されてしまうじゃないか。いろんな不安が渦巻いている。
江戸の千駄ヶ谷《せんだがや》にある、新撰組ゆかりの屋敷で、沖田さんは療養している。
違う。療養とはもう呼べないかもしれない。沖田さんの病状は、船で江戸にこぎ着けたころから急激に悪化した。快復は見込めないと、医者はさじを投げた。
「ボクが死んだら、墓参りは来なくていいよ。照れくさいんだよね。花とか、そういうのいらないから、ボクのことは忘れて、みんな元気でやってて。それでいいよ」
沖田さんは微笑みながら言った。
お見舞いに来た近藤さんは、涙をこらえる表情だった。ケガから復帰して、新たな戦場、甲州へ向かおうとする日のことだ。
「弱気なことを言うな、総司。甲州の戦をさっさと終わらせて、戻ってくる。しっかり養生して、元気になれ。春が過ぎれば、すぐ夏になって暑くなる。精をつけておかんと、つらいぞ」
沖田さんは、うなずきながら聞いていた。突然、くしゃりと顔を歪ませて泣き出した。
「ゴメンなさい、近藤さん。役に立てなくて。おれには刀しかないのに、こんな弱い体になっちまって……」
近藤さんの大きな手が、沖田さんの頭を撫でた。わしわしと、父親が子どもにするようなやり方で。
「泣くヤツがあるか。今生《こんじょう》の別れでもあるまいし。すぐに戻るからな。うまいものを食って、よく休め」
沖田さんは、いやいやをするように首を振った。近藤さんの肩にすがって泣いて、泣きじゃくって、やがて、泣き疲れて気を失うように眠ってしまった。
シャリンさんがつぶやいた。
「もう、やだ。見てらんない」
声が震えていた。たぶん、泣いている。
ラフ先生もニコルさんも、何も言わない。二人は新撰組の史実を知っている。だからこそ、このエピソードの結末を言葉にできずにいるんだ。
暗い予感が、アタシの胸にもある。
近藤さんは沖田さんを布団に寝せ付けると、アタシたちに向き直った。
「幕府から新撰組へ出撃要請が下った。新撰組は、甲陽鎮撫隊《こうようちんぶたい》と名を改める。幹部の皆も偽名を使って正体を隠す」
甲陽鎮撫隊。つまり、甲州での戦を収めるための部隊。
マップが自動的にポップアップした。現在地と甲府城と、二点を結ぶ甲州街道。甲陽鎮撫隊の進撃ルートが赤く表示される。
アタシは近藤さんを見上げた。
「甲府城という場所で戦うんですか?」
「ああ、そうだ。新政府軍より先に甲府城を取るのが最初の目標。甲州街道は、西から江戸に至る幹線の一つだ。オレたちは甲府城に拠って、新政府軍を撃退する」
「新政府軍は大軍なんでしょう? 大変な戦いになるんじゃないですか?」
「心配には及ばんよ、ミユメ。勝《かつ》先生が軍備の補強をしてくれた。軍資金も大砲も銃も十分にある。なあ、斎藤?」
水を向けられた斎藤さんは、スッと視線をそらした。
「……甲州は山だ。雪が解けきっていないのが不安だ。でも、出撃要請には従う。従わなきゃ、いけない」
奥歯にものが挟まったような言い方だった。何ともいえない違和感。斎藤さんは、隠しごとをしている?
シャリンさんがぶっきらぼうに訊いた。
「斎藤、勝先生って何者?」
「勝麟太郎《かつ・りんたろう》。号で呼ぶなら、勝海舟《かつ・かいしゅう》。幕府の軍事と外交の重要人物だ」
シャリンさんが腕組みをした。
「勝海舟なら、聞いたことあるわ。斎藤の伝書バトの相手が勝海舟ってわけ?」
「えっ?」
ラフ先生とニコルさんが同時に声をあげた。斎藤さんが顔を背ける。シャリンさんが小首をかしげた。
「斎藤がたまに手紙をハトに持たせて飛ばしてるの。誰かに何かを報告してたんだろうけど、その相手が勝海舟なんじゃないかって。ラフもニコルも、何を驚いてるのよ?」
確かに、斎藤さんのそばにはよく白いハトがいる。沖田さんルートのマスコットキャラクターは黒猫のヤミで、向こうは白いハトなんだなって、そういう存在だと思っていた。
ラフ先生は斎藤さんを凝視していた。
「斎藤、オマエ、勝がつながってるってことは、相当な量の情報を持ってるってことだよな? 旧幕府軍でいちばん先進的で、むしろ予知能力みたいな勢いで時代の情勢を読んでいたのが勝海舟だ。勝にとって新撰組がどういう扱いなのかわかってて、今まで?」
ニコルさんは眉間を指でつまんだ。
「なるほどね。時司だからじゃなかったんだ。一くんがいろいろ知ってる理由。繰り返し生きてても記憶はないって言ってたもんね。裏にいたのは勝海舟か。これは相当、残酷な話だよ。一くん自身、そろそろ本当にわかってきただろう?」
アタシには意味がわからない。シャリンさんと目が合った。シャリンさんも、ハテナを吹き出しに浮かべた。
近藤さんがポンと手を打った。
「さあ、グズグズしていられない。斎藤、シャリン、ニコル。そろそろ暇を告げよう。新撰組、改め、甲陽鎮撫隊。必ずや甲府城を取り、江戸の町を守ろう!」