自分で動ける子たちが食べ終わって、洗面台で歯磨きを始めると、あたしはやっと自分の朝ごはんを食べられる状態になった。
食事介助が必要な子は、まだ食事中だ。小児まひの由士《ゆうし》くんと目が合った。「こっち来て」っていう目だ。あたしはお盆を持っていって、由士くんの正面に座った。
「ここで食べますね」
由士くんの目がニコッとした。
あたしがいただきますをした直後だった。歯磨き中の子どもたちが、わっと騒いだ。
「うわ、朝綺《あさき》先生!」
「界人《かいと》さんも!」
「おはよーございます!」
「先生たちもここで食べるの?」
朝綺先生、と聞いて、あたしはスプーンを取り落とした。食器の中で、特製のシリアルがカサッと鳴った。
飛路朝綺《とびじ・あさき》先生。あたしの憧れの人。
朝綺先生はさっそく、子どもたちに取り囲まれている。サラサラの茶色っぽい髪に、線の細い完璧な横顔。いたずらっぽく笑っている口元。年齢は知らないけれど、たぶん二十代前半。
服がいつもちょっと目立つ。ロックバンドのロゴが入ったTシャツとか、ダメージ入りジーンズとか。病院のスタッフさんでも私服の人はいるけれど、朝綺先生みたいなスタイルは珍しい。
今日もカッコいいです。
口に出しては言えないことを、あたしは胸の内側でつぶやいた。
朝綺先生は、院内学園で勉強を教えている。子どもたちに好かれているのはもちろん、ママさんたちにも朝綺先生ファンが多い。メインは理系らしい。でも何でも知っていて、どんな教科もできる。
今朝の朝綺先生は車いすに乗っている。車いすを押すのは、風坂界人《かぜさか・かいと》さん。朝綺先生の親友で、介助士をしている人。
界人さんは背が高くて、いつもにこにこしている。優しい性格が、声にも話し方にも表れている。くしゃっとした髪に、銀のフレームのメガネ。ファッションは、ヘルパーさんとして普通な感じ。汚れてもいい、動きやすい服装だ。あんまりオシャレではない。
界人さんファンも多い。でも、あたしは断然、朝綺先生派。みんなの前では隠しているつもりだったのに、望ちゃんにはバレバレだった。
あたしは、朝綺先生に見とれてしまう目を、無理やり引きはがした。今はまず朝ごはんを食べないと。
と、まじめにスプーンを動かしていたら、いつの間にか。
「おはよ、優歌」
いつの間にか、朝綺先生が隣にいた。
「お、おお、おはようございます。びっくりした」
「悪ぃ悪ぃ。この車いす、音がしねぇだろ? けっこう上等なんだ」
「そ、そうなんですね」
「優歌はあいつらの面倒見てから食事か? 毎朝、大変だな。ご苦労さん」
「大変ですけど、楽しいですよ」
「そうだな。散歩のついでにこっちまで来てみたんだけど、いやぁ、にぎやかなもんだ。おう、おはよう、由士。ご機嫌だな。美人の優歌と一緒に朝飯で、嬉しいんだろ? うらやましいやつめ」
あたしはうっかり、変な声を上げてしまうところだった。朝綺先生の口から「美人の優歌」だなんて言葉が飛び出すなんて。カーッと顔が熱くなってくる。
由士くんはしゃべるのが苦手だ。でも、朝綺先生は不思議な人で、なかなか聞き取れないはずの由士くんの話を、即座に理解してしまう。
ダメだ。ついつい、視線が朝綺先生のほうへ向かっちゃう。
朝綺先生の右の頬には、薄い一文字の傷痕がある。よほどちゃんと見ないと気付かないけれど。でも、あたしはそれにも気付いてしまった。だって、しょっちゅう見てしまうから。
「ところで、優歌。ここ来たのは、優歌に用事があって」
「あ、あたしにっ?」
朝綺先生は声のトーンを落とした。節張った手を、車いすのアームレストから持ち上げて、口元に添える。
「まだほかのやつらには内緒な。今日からメンツが増えるんだ」
ああ、なんだ。院内学園の話か。
「つまり、転校生ですか?」
「そう。優歌と同じ高校生だぜ。昨日、入院したばっかりなんだ」
「わかりました。楽しみですね。どんな人なんでしょう?」
「今日の昼ごろでも、一緒に挨拶に行くか?」
「はい」
「オッケー。ちなみに、転校生、イケメンだぞ」
「……はあ。そうなんですか」
「あれ、興味ねぇの? まあ、優歌は目が高そうだもんな」
朝綺先生はすさまじく鈍感なリアクションをした。あたしがいつも見ちゃっていること、朝綺先生は全然わかっていないんだ。
そうですね。確かにあたし、目が高すぎるかもしれませんね。朝綺先生ってステキすぎるもの。
「そういや、優歌」
「はい?」
「そのパジャマ、かわいいな」
反則なセリフをサラッと投げて、朝綺先生はテーブルを離れていった。両手で転がす車いすは、床の上を滑るように、音ひとつ立てない。
食事介助が必要な子は、まだ食事中だ。小児まひの由士《ゆうし》くんと目が合った。「こっち来て」っていう目だ。あたしはお盆を持っていって、由士くんの正面に座った。
「ここで食べますね」
由士くんの目がニコッとした。
あたしがいただきますをした直後だった。歯磨き中の子どもたちが、わっと騒いだ。
「うわ、朝綺《あさき》先生!」
「界人《かいと》さんも!」
「おはよーございます!」
「先生たちもここで食べるの?」
朝綺先生、と聞いて、あたしはスプーンを取り落とした。食器の中で、特製のシリアルがカサッと鳴った。
飛路朝綺《とびじ・あさき》先生。あたしの憧れの人。
朝綺先生はさっそく、子どもたちに取り囲まれている。サラサラの茶色っぽい髪に、線の細い完璧な横顔。いたずらっぽく笑っている口元。年齢は知らないけれど、たぶん二十代前半。
服がいつもちょっと目立つ。ロックバンドのロゴが入ったTシャツとか、ダメージ入りジーンズとか。病院のスタッフさんでも私服の人はいるけれど、朝綺先生みたいなスタイルは珍しい。
今日もカッコいいです。
口に出しては言えないことを、あたしは胸の内側でつぶやいた。
朝綺先生は、院内学園で勉強を教えている。子どもたちに好かれているのはもちろん、ママさんたちにも朝綺先生ファンが多い。メインは理系らしい。でも何でも知っていて、どんな教科もできる。
今朝の朝綺先生は車いすに乗っている。車いすを押すのは、風坂界人《かぜさか・かいと》さん。朝綺先生の親友で、介助士をしている人。
界人さんは背が高くて、いつもにこにこしている。優しい性格が、声にも話し方にも表れている。くしゃっとした髪に、銀のフレームのメガネ。ファッションは、ヘルパーさんとして普通な感じ。汚れてもいい、動きやすい服装だ。あんまりオシャレではない。
界人さんファンも多い。でも、あたしは断然、朝綺先生派。みんなの前では隠しているつもりだったのに、望ちゃんにはバレバレだった。
あたしは、朝綺先生に見とれてしまう目を、無理やり引きはがした。今はまず朝ごはんを食べないと。
と、まじめにスプーンを動かしていたら、いつの間にか。
「おはよ、優歌」
いつの間にか、朝綺先生が隣にいた。
「お、おお、おはようございます。びっくりした」
「悪ぃ悪ぃ。この車いす、音がしねぇだろ? けっこう上等なんだ」
「そ、そうなんですね」
「優歌はあいつらの面倒見てから食事か? 毎朝、大変だな。ご苦労さん」
「大変ですけど、楽しいですよ」
「そうだな。散歩のついでにこっちまで来てみたんだけど、いやぁ、にぎやかなもんだ。おう、おはよう、由士。ご機嫌だな。美人の優歌と一緒に朝飯で、嬉しいんだろ? うらやましいやつめ」
あたしはうっかり、変な声を上げてしまうところだった。朝綺先生の口から「美人の優歌」だなんて言葉が飛び出すなんて。カーッと顔が熱くなってくる。
由士くんはしゃべるのが苦手だ。でも、朝綺先生は不思議な人で、なかなか聞き取れないはずの由士くんの話を、即座に理解してしまう。
ダメだ。ついつい、視線が朝綺先生のほうへ向かっちゃう。
朝綺先生の右の頬には、薄い一文字の傷痕がある。よほどちゃんと見ないと気付かないけれど。でも、あたしはそれにも気付いてしまった。だって、しょっちゅう見てしまうから。
「ところで、優歌。ここ来たのは、優歌に用事があって」
「あ、あたしにっ?」
朝綺先生は声のトーンを落とした。節張った手を、車いすのアームレストから持ち上げて、口元に添える。
「まだほかのやつらには内緒な。今日からメンツが増えるんだ」
ああ、なんだ。院内学園の話か。
「つまり、転校生ですか?」
「そう。優歌と同じ高校生だぜ。昨日、入院したばっかりなんだ」
「わかりました。楽しみですね。どんな人なんでしょう?」
「今日の昼ごろでも、一緒に挨拶に行くか?」
「はい」
「オッケー。ちなみに、転校生、イケメンだぞ」
「……はあ。そうなんですか」
「あれ、興味ねぇの? まあ、優歌は目が高そうだもんな」
朝綺先生はすさまじく鈍感なリアクションをした。あたしがいつも見ちゃっていること、朝綺先生は全然わかっていないんだ。
そうですね。確かにあたし、目が高すぎるかもしれませんね。朝綺先生ってステキすぎるもの。
「そういや、優歌」
「はい?」
「そのパジャマ、かわいいな」
反則なセリフをサラッと投げて、朝綺先生はテーブルを離れていった。両手で転がす車いすは、床の上を滑るように、音ひとつ立てない。