「あの、朝綺先生? 麗先生とのこと、秘密なんですか?」
「そりゃまあ、大人の事情がいろいろ。ここ、麗の職場だし。研究に私情がからんでるとか、中傷されたくねぇんだ。もしスッパ抜かれて叩かれたとしても、おれは開き直れるよ。むしろ自慢してやる。でも、あいつは中傷とかバッシングとか、そういうのに弱いからさ」
「大丈夫ですよ。あたし、絶対に黙っておくので」
 朝綺先生は顔を背けたまま、うなずいた。
 少しだけ、沈黙が落ちた。それから朝綺先生は、言い訳をするように続けた。
「研究棟の庭、低いガラスドームになってるだろ。あれ、マジックミラーなんだ。外から中の様子は見えねぇの。おれはあそこでリハビリすることも多くて、研究上の機密や制約があるのは病院のスタッフなら誰でも知ってるから、みんな遠慮して入ってこねぇんだ」
 なるほど。だから、安心してデートしていたんだ。
「見ちゃって、すみません。偶然だったんですけど」
「いや、別に、やましいことではないし。でもまあ、なんつーか、やっぱ恥ずい」
 大人の顔を見せたと思ったら、赤くなって照れる。開き直れると言った割に、ごもごもと歯切れが悪い。
 言葉が荒いところは少年っぽいかもしれない。でも、もしも体が自由に動いたとしても、きっと壮悟くんを殴ったりはしなかった。自制しながらも憤りに震える後ろ姿は、とても強くて優しかった。
 やっぱり朝綺先生は魅力的な人だ。あたしには手が届かない人。胸が痛いけれど、切ないけれど、あたしは心の底から祝福する気持ちだった。
「朝綺先生と麗先生、すごくお似合いですよね。うらやましかったです。あたしもステキな彼氏ができたらいいなって、憧れます」
 朝綺先生がようやくこっちを向いた。まだ顔が赤い。右頬の傷が白く浮かび上がって見える。照れ笑いをしている。
「ありがとな。たまに自信なくすんだけど。壮悟も言ってたろ? 満足させてやってんのかって。あれ、実はけっこう応えた。キレて怒鳴っちまったもんな」
 満足っていうのは、たぶん、大人な意味なんだと思う。カラダの関係、夜の愛情表現。病気やまひで体が動かなくても、性的な欲求や反応は当然あるわけで、朝綺先生の体がどれくらい自由に動くのかわからないけど、やっぱり、もどかしいんだろうな。
 朝綺先生が「うわぁ」と言って顔を伏せた。
「ゴメン、優歌。おれ、やっぱ今おかしいな。女子高生相手に何言ってんだか。てか、今日はほんとに下ネタ発言ばっかなんだけど、そのへん意味わかった?」
「壮悟くんに対して言ったことですよね?」
「うわー、もう、マジでスマン。教育者がしていい発言じゃなかった。反省してる。誰にも言わんでくれ」
「言えませんって。でも、あたし、一つ上の姉がいて、基本的にはおとなしい人なんですけど、たまにすごく大胆で、彼氏さんとの話を聞いたりするので、それなりに慣れてます」
「あー、そっか。なるほどね。進んでんなー。優歌の一つ上ってことは、受験生か?」
「はい。姉もその彼も響告大志望です」
「じゃあ、来年からは二人ともおれの後輩かな」
「朝綺先生、響告大出身でしたね」
「ああ。工学部でプログラミングやってた。介助士の界人もね。十三年来の付き合いになるかな」
「え? 十三年?」
 朝綺先生は二十代前半に見える。もしかして、飛び級して大学に入った? でも、それにしても、年数に無理がある気がする。
 首をかしげるあたしに、朝綺先生は、いたずらっぽい笑い方をした。
「おれ今、二十八だよ。見えないだろ?」
「もっと若いと思っていました」
「界人はおれより四つ上だけど、同級生。おれは飛び級して十五歳で大学に入ったんだ。界人は大学時代から、おれの世話焼いてくれてる」
 朝綺先生のことを、あたしはあまり知らない。朝綺先生も、あたしのことを知らない。お互いにプライベートな話をしたことが、あまりなかった。
 今、話したいと思った。話をしたら、あたしは開き直れる。失恋した相手じゃなくて、信頼できる大人として、朝綺先生と対面できるようになる。