朝綺先生はエレベータに乗った。あたしは、すんでのところで追い付けなかった。朝綺先生を乗せたエレベータは上へ上へ向かっていく。
 あたしはボタンに触れて、エレベータを呼んだ。三台あるエレベータは、ちょうどお昼時のせいもあって、なかなか来ない。やっと来ても、お昼ごはんのカートがギリギリいっぱいに載っていた。
 ようやくのことで、あたしは屋上にたどり着いた。小児病棟の屋上は、小さな公園になっている。ガラスドームに覆われていて、すべり台とブランコ、かわいい色のベンチがある。
 出入口は施錠されて、普通の人は出入りできない。あたしは特別だ。カードキーを貸してもらっている。
 朝綺先生は一人、ベンチに座っていた。背もたれに体を預けて空を見ている。淡い青色の秋空だ。白い雲が、かすれながら、たなびいている。
 あたしは、わざと足音を立てて歩いた。朝綺先生はこっちを見ない。あたしはベンチの隅っこに腰を下ろした。朝綺先生は空を仰いだまま、息をついた。
「優歌も、ここの鍵、持ってたのか。誰も来ねえと思ってたんだけど」
 軽やかな、いつもの口調だった。
 あたしは両手の指をひざの上で組み合わせた。親指の爪を、意味もなく見る。
「ここ、あたしにとっては音楽スタジオなんです。録音するときは、いつもここで歌ってます。ガラスドームのおかげで、音の響きがちょうどいいんです」
「なるほどね」
 朝綺先生は、吐息のような笑い方をした。それは普段の笑い方じゃなかった。子どもたちの前での笑顔とは、別だ。
「あの、朝綺先生。さっき、あたし……」
「聞いてたんだろ? おれの後ろ側にいたよな」
「気付いていたんですか?」
 朝綺先生は一度も振り返らなかった。あたしも声を出したりしなかったのに。
「おとなげないところ、見せちまったな。余裕なくなってた。しかしまあ、おれはほんっとに言葉汚ねぇよな。仮にも教育者だってのに」
 おとなげないって、そんなことない。怒って当然だった。
「少し怖かったです。でも、麗先生のために本気で怒っていて、カッコいいなと思いました」
「ほんとはぶん殴ってやりたかった。結局、口だけなんだよな。久々だぜ、こんなに悔しいの。壮悟に対する怒りもあるんだけど、それ以上に、悔しい。動けない自分が悔しい」
 朝綺先生の口調は相変わらず軽やかで、かすかに笑っているような、からかっているような、いつもの雰囲気だ。
 でも、こぶしに力が入っている。まだ不十分なはずの握力だけれど、男の人のこぶしの形をしていた。
「麗先生、大丈夫でしょうか?」
「んー、大丈夫じゃないかも。何て言ってやればいいかな? あいつ、必要以上に落ち込んでるだろうからさ」
「必要以上って?」
「子犬に噛み付かれただけだろ、あんなもん。おれは麗を責めるつもりなんてないけど、麗は自分を責めてるだろうな。関係ねぇのに。そんくらいで、おれが……って、ちょい待ち! 優歌、おれと麗の関係、もともと知ってたのか?」
 朝綺先生は、切れ長な目をこの上ないほど丸く見開いている。
「あ、えっと、この間、見てしまって」
「いつどこで何を見た?」
「何日か前、研究棟の庭で、二人でいるところ、見たんです。あの、お弁当……」
「えぇぇ、マジか?」
「は、はい。マジです」
「うわぁ……」
 朝綺先生はそっぽを向いた。耳が真っ赤だ。あんなに堂々といちゃいちゃしていたのに、それを目撃したと言ったら、照れている。