わらじを脱ぎ散らして玄関を上がった沖田さんは、まっすぐに土方さんの部屋へ走った。
「土方さん!」
 沖田さんは勢いよくふすまを開けた。土方さんは書類から目を上げた。
「ああ、総司か。どこで遊んでいたんだ? 斎藤に伝言を頼んだはずだが」
 沖田さんは土方さんに詰め寄った。
「山南さんが脱走って、どういうこと?」
「言葉のとおりだ。山南敬助が無断で新撰組を抜けた」
 沖田さんは声を震わせた。
「どうして、山南さんが脱走なんか……」
 土方さんが目を伏せた。まつげの影が頬に落ちる。
「どうして? それがわかれば、苦労はしない」
「苦労って」
「いや、言い方がおかしいな。苦しいよ。どうして山南さんが脱走したのかを考えると、胸が苦しくて仕方がない。新規の隊士ではなく、古くからの仲間が、どうして……」
 斎藤さんが淡々と言った。
「山南さんの部屋に置き手紙には、江戸へ行くという一言だけが書かれていた。でも、本気で江戸に向かうつもりはないんだと思う。今、大津にいる。大津から動く気がないのも確認してきた」
 大津は、京から東へ山を越えた先だ。山中越《やまなかごえ》というルートが、斎藤さんの説明とともに、マップ上に表示される。
 土方さんが顔を上げた。ポーカーフェイスに戻っていた。土方さんは沖田さんに告げた。
「新撰組一番隊組長、沖田総司に命ず。ただちに出立し、山南敬助を捕縛せよ」
 沖田さんは呆然と目を見開いている。
「本気で言ってるの? 山南さんをつかまえて、斬れって?」
 斬ることをためらう沖田さんなんて、思いも掛けなかった。脱走した元隊士を斬るという話をしたときも、妖と化した敵と戦うときも、沖田さんは、刀を振るうことを残酷なくらいに楽しんでいたのに。
 それだけ山南さんという人が特別だということ、昔からの仲間がかけがえのないものだということだ。
 斎藤さんが見かねたように進み出た。
「土方さん、オレが行こうか?」
 沖田さんがハッと斎藤さんを見る。
「斎藤さん、何言ってんの?」
「沖田さんじゃ、山南さん相手に本気を出せない。でも、オレなら心を殺して戦える」
「そんな言い方」
「山南さんも力場使いだぞ。しかも、チカラの完成度は、沖田さんより上だ」
 沖田さんは唇を噛んだ。右手の甲を見る。つながりきっていない円環の紋様が、鈍い色に沈んでいる。
 斎藤さんが左の籠手《こて》を外した。手の甲に、完成した紋様がある。青白い円環だ。冷たくてまがまがしく、同時に美しい。
 土方さんが、かぶりを振った。
「いや、総司を行かせる。総司じゃなけりゃダメだ」
「ボクが……どうしても、行かないといけない?」
 土方さんは沖田さんの肩に手を載せた。秀麗なポーカーフェイスが崩れた。弱々しいような微笑だった。
「つかまえて連れてくるだけでいい。話がしたいんだ。近藤さんもオレも、山南さんと、腹を割って話がしたい」
 沖田さんの顔に表情が戻る。大きな目に希望の光が差した。
「連れて帰ってくればいいんだね? 山南さんのこと、酷く扱ったりしないね?」
 土方さんはうなずいた。
「約束する。この一件に関しては山南さんをとがめない」
「二言はないよね? その言葉、信じるよ?」
「ああ。総司だからこそ、この役目を果たせると思う。山南さんは他人に心を見せない。だが、子どもらと総司の前では別だ。本当の顔で笑っていた」
「ひどいな、土方さん。ボクは子どもと同じくくりなの? でも、いいよ。わかった。ボクが山南さんを連れ戻してくる。必ず一緒に、ここに戻ってくるよ」