麗先生が小さなケースのふたを開けた。
「林檎も食べる?」
「ん、食べる食べる」
ピックに刺された、くし切りの林檎だ。麗先生に差し出されて、朝綺先生の口が、サクッとかじり取る。
「味、どう? 共同研究してるラボからもらったの。その林檎も、遺伝子のじっけ……」
麗先生の言葉は、途中で食べられた。朝綺先生が、麗先生に、キスしている。
やだ。
見たくない。
麗先生が目を閉じる。朝綺先生が首を傾ける。大人のキスは深くて、きっと、甘い秘密の林檎の味がする。
見たくないのに。
キスがほどかれる。唇は離れても、見つめ合う目は近い。
朝綺先生の腕がゆっくりと持ち上がる。麗先生は林檎のケースをベンチの上に置いた。二人の距離がゼロになる。ふわりと、朝綺先生が麗先生を抱きしめた。
ガラスの庭の中では、風もない。しんとしている。
自分の心臓の音だけが、うるさく鳴っている。
「麗……」
秋バラよりも、さわやかで甘い声。
朝綺先生はもっと儚い存在だと思っていた。恋人を抱きしめることができるって知らなかった。
「力が強くなったわね」
「これが今のおれの全力。すぐ疲れちまうから、お姫さま専用な」
「当たり前でしょ?」
クスクスと笑い合う声。
「なあ、今夜、来れる?」
「行ける予定よ」
「よっしゃ、頑張ろ」
「頑張るって何よ?」
「いくらおれでも、昼間っから口に出せねぇよ。それとも、言わせたいわけ? お姫さまのエッチ」
「ば、バカ」
「知ってる」
「……そろそろお昼休み終わっちゃう。行かないと」
「わかった。じゃあ、夜を楽しみに、リハビリ頑張るとするか」
甘い約束を交わした二人が庭を出ていく。寄り添い合って、ときどき笑いながら、ゆっくり歩いていく。
頭の中が真っ白だった。何も考えられなくて。動けなくて。
失恋したんだ。
あたし、また失恋した。勝手に好きになって、勝手に失恋して、悲しくて悔しいけど、こんな気持ち、誰にぶつけようもない。
「何で……」
つぶやいたら涙が出た。
壮悟くんが立ち上がった。そうだ。この人、隣にいたんだ。忘れていた。
「おい、あんた。いつまでここにいるつもりだ?」
「…………」
あたしは座ったまま壮悟くんを見上げた。壮悟くんは、驚いた顔をした。
「な、何だよ、どうして泣いてんだよ? おれのせい? いや、もしかして……あんた、朝綺ってやつのこと好きなのか?」
壮悟くんの言葉が胸をえぐった。あたしの涙が止まらなくなる。壮悟くんはそっぽを向いて、あたしに手を差し出した。
「立てよ」
「…………」
あたしは黙ったまま、動かずにいた。そうしたら、壮悟くんの手があたしの腕をつかんだ。グイッと引かれて無理やり立たされる。
「泣くなら、部屋で泣いてろ。そんな顔、見せるな」
壮悟くんが歩き出す。
引っ張られて、あたしも歩き出す。
「……きみには関係ないです」
「うるせぇよ。黙ってろ。ムカつく。あんたも飛路朝綺も風坂麗も、すげぇムカつく」
階段ではなくエレベータを使った。空中回廊を通って、小児病棟に戻る。
病棟特有のにおいがする場所まで来ると、壮悟くんはあたしの手を離した。つかまれていたところがジンジン痛い。
「ここから先、泣くなよ。おれが泣かしたみたいに見えるんだからな」
壮悟くんがあたしに背中を向ける。あたしはのろのろと、その背中を追いかけた。置いていかれると思ったけれど、壮悟くんはずいぶんゆっくり歩いていた。
自分の病室に戻ったあたしは、ログインまでの間に涙を枯らそうと思った。
枕に顔を押し当てて、泣いた。
「林檎も食べる?」
「ん、食べる食べる」
ピックに刺された、くし切りの林檎だ。麗先生に差し出されて、朝綺先生の口が、サクッとかじり取る。
「味、どう? 共同研究してるラボからもらったの。その林檎も、遺伝子のじっけ……」
麗先生の言葉は、途中で食べられた。朝綺先生が、麗先生に、キスしている。
やだ。
見たくない。
麗先生が目を閉じる。朝綺先生が首を傾ける。大人のキスは深くて、きっと、甘い秘密の林檎の味がする。
見たくないのに。
キスがほどかれる。唇は離れても、見つめ合う目は近い。
朝綺先生の腕がゆっくりと持ち上がる。麗先生は林檎のケースをベンチの上に置いた。二人の距離がゼロになる。ふわりと、朝綺先生が麗先生を抱きしめた。
ガラスの庭の中では、風もない。しんとしている。
自分の心臓の音だけが、うるさく鳴っている。
「麗……」
秋バラよりも、さわやかで甘い声。
朝綺先生はもっと儚い存在だと思っていた。恋人を抱きしめることができるって知らなかった。
「力が強くなったわね」
「これが今のおれの全力。すぐ疲れちまうから、お姫さま専用な」
「当たり前でしょ?」
クスクスと笑い合う声。
「なあ、今夜、来れる?」
「行ける予定よ」
「よっしゃ、頑張ろ」
「頑張るって何よ?」
「いくらおれでも、昼間っから口に出せねぇよ。それとも、言わせたいわけ? お姫さまのエッチ」
「ば、バカ」
「知ってる」
「……そろそろお昼休み終わっちゃう。行かないと」
「わかった。じゃあ、夜を楽しみに、リハビリ頑張るとするか」
甘い約束を交わした二人が庭を出ていく。寄り添い合って、ときどき笑いながら、ゆっくり歩いていく。
頭の中が真っ白だった。何も考えられなくて。動けなくて。
失恋したんだ。
あたし、また失恋した。勝手に好きになって、勝手に失恋して、悲しくて悔しいけど、こんな気持ち、誰にぶつけようもない。
「何で……」
つぶやいたら涙が出た。
壮悟くんが立ち上がった。そうだ。この人、隣にいたんだ。忘れていた。
「おい、あんた。いつまでここにいるつもりだ?」
「…………」
あたしは座ったまま壮悟くんを見上げた。壮悟くんは、驚いた顔をした。
「な、何だよ、どうして泣いてんだよ? おれのせい? いや、もしかして……あんた、朝綺ってやつのこと好きなのか?」
壮悟くんの言葉が胸をえぐった。あたしの涙が止まらなくなる。壮悟くんはそっぽを向いて、あたしに手を差し出した。
「立てよ」
「…………」
あたしは黙ったまま、動かずにいた。そうしたら、壮悟くんの手があたしの腕をつかんだ。グイッと引かれて無理やり立たされる。
「泣くなら、部屋で泣いてろ。そんな顔、見せるな」
壮悟くんが歩き出す。
引っ張られて、あたしも歩き出す。
「……きみには関係ないです」
「うるせぇよ。黙ってろ。ムカつく。あんたも飛路朝綺も風坂麗も、すげぇムカつく」
階段ではなくエレベータを使った。空中回廊を通って、小児病棟に戻る。
病棟特有のにおいがする場所まで来ると、壮悟くんはあたしの手を離した。つかまれていたところがジンジン痛い。
「ここから先、泣くなよ。おれが泣かしたみたいに見えるんだからな」
壮悟くんがあたしに背中を向ける。あたしはのろのろと、その背中を追いかけた。置いていかれると思ったけれど、壮悟くんはずいぶんゆっくり歩いていた。
自分の病室に戻ったあたしは、ログインまでの間に涙を枯らそうと思った。
枕に顔を押し当てて、泣いた。