そこは小さなイングリッシュガーデンだった。伏せたお椀のようなガラスドームに覆われている。背の高い建物に囲まれて、空は狭く切り取られていた。
 建物の三階よりも低いガラスドームの内側には、柔らかな熱を放つ人工太陽がほのかに輝いている。青々とした芝生。満開の秋バラが、さわやかで甘い香りを放っていた。
 芝生の上で、壮悟くんは倒れ込んだ。もちろん、あたしも巻き添えにして。
「……ゃっ……!」
「ゴメン……しばらく……」
 仰向けの背中の下に、あたしを抱きかかえる壮悟くんの腕がある。
 息が、できない。
 心臓がドキドキしすぎて、苦しい。
 これは事故。これは偶然。壮悟くんは貧血を起こして、自由に動けなくて、だから、これは仕方のない状況で。
 わかっている。ドキドキする必要なんてないはずなのに。
 あたしの耳元で震える、壮悟くんの呼吸。やせていても、骨が太くて体じゅうが硬くて、ずっしりと重い。あたしのものとは違う肌の匂いがする。
 壮悟くんのニット帽が、あたしの頬をこする。
 重なり合った胸。鼓動が響き合っている。生きて動いている心臓が二つ。
 鼓動って、一生懸命な音だ。愛しい、と感じた。
 その命が、その鼓動が、尊くて愛しい。
 単純に、純粋に、切ないほど、泣きたくなるほど、この鼓動と体温が大切で。
 この気持ちは何?
 生きているんだなって、急に強く感じた。あたしひとりじゃなくて、こうやって鼓動と体温を重ねているから。
 どれくらいの間、そうしていたんだろう?
 たぶん、長い時間だった。でも、一瞬だったような気もした。
 いつの間にか、壮悟くんの呼吸が落ち着いている。胸のドキドキは速いままだった。あたしの胸の鼓動も走りっぱなしだ。
 あたしの背中の下で、壮悟くんの腕が動いた。そっと引き抜かれる。壮悟くんが芝生に両手を突いた。そして、ゆっくり体を浮かせた。
 呼吸が楽になった。
 壮悟くんが、あたしの顔を見下ろした。まだ青白い顔をしている。血がにじんだ唇、深い色と澄んだ光を宿した目。
 目尻に、うっすらと涙があるのは、苦しかったせいだろう。怖かったせいでもあるだろう。自分の体が壊れていくように感じるときは、ただただ、絶望に呑まれてしまう。目の前が真っ暗になるような気持ちになるから。
 あたしは、微笑んでみせた。
「生きてますよ。大丈夫。ね?」
 壮悟くんは息を呑んだ。その目の奥に、キラリと、驚きに似た何かが走り抜けた。
 次の瞬間。
 視界いっぱいに壮悟くんの黒い瞳があった。
 唇に、感触。
 カサリと乾いて柔らかいもの。弾力があって、少し冷たい。
 これは、唇……?
 壮悟くんの目に、あたしの目が映り込んでいる。合わせ鏡みたいに、一つの情景が、いくつも見えた。
 キス、されている。
 壮悟くんがまぶたを閉じる。まつげの長さに驚かされる。肌の匂い。皮膚の熱。
 一瞬、唇が離れた。すぐに再び落とされるキス。
 どうして?
 少し温まった壮悟くんの唇が柔らかい。甘い。とても甘い。頭が痺れてくる。
 あたしはキスをしている。
 その時間は唐突に終わった。唇が離れた。あたしはまぶたを開いた。いつの間に目を閉じていたんだろう?
 壮悟くんはまだ、あたしを体の下にとらえている。壮悟くんは、静かな目をしていた。不思議そうでもあった。
「人間って、動物なんだな。急に、食べたいって思った。本能ってやつ? 衝動に抵抗できなくて。気付いたらキスしてた」
 意味がわからない。
 あたしは我に返った。あたしの好きな人は、ほかにいるのに。
「からかわないでください」
 ファーストキスだった。
「からかってるわけじゃない」
 まっすぐな目にのぞき込まれる。さっきの合わせ鏡を思い出した。
 あたしも同じだった。
 壮悟くんを動かしたのが本能なら。とろけそうになったあたしも同じだ。本能に抵抗できなかった。キスはとても甘かった。ずっとずっと唇を重ねていたいくらいに。
 どうして?
 あたしは恋をしている。あたしが好きな人は、壮悟くんじゃない。
「どいてください」
 あたしは横を向いた。壮悟くんの腕が視界に入った。手首の骨の形が、あたしとは違う。ずいぶんゴツゴツしている。
 この腕に抱きしめられたんだ。そう思ったら、また胸のドキドキが速くなった。
 壮悟くんは素直に体を起こした。あたしも起き上がった。