「凍結保管《コールドスリープ》って言ったの。できるものならやりたいって思ってる? 病気の治療法が確立される日を、凍結保管《コールドスリープ》の状態で待ちたいって?」
「……知ってたのか」
「調べたのよ。そして、わかったの。あんたがどうしてラフを凍らせたのか、その理由」
 おにいちゃんからラフの正体を知らされた日、あたしは調べものに没頭した。筋ジストロフィーについて。万能細胞やジャマナカ細胞について。先端医療について。オンライン図書館に居座って、片っ端から資料を読んだ。
 凍結。
 その言葉に目が留まった。それは医療技術の一種だった。細胞ならびに生体の凍結保管《コールドスリープ》。
 ラフを凍らせた朝綺の本心を、あたしは理解した。雪山のシナリオは、絶望なんかじゃない。ポリアフの剣は希望のストーリーだ。
「あたし、知ったの。ジャマナカ細胞の研究で世界をリードしてる響告大学は、当然、細胞の保管の技術にも実績がある。生体の凍結保管《コールドスリープ》の技術は、実験レベルでは、すでに確立されているのね」
 朝綺は小さくあごを引いた。うなずいたんだ。
「生体を凍結させて、老化を完全にストップさせる。いわば、時間の流れから外した形で保管する。動物実験では成功済みだ」
「知ってるわ。ヒトより小さい動物だけじゃなく、ウシやウマでも成功した。次は霊長類での実験に入る。医療現場への導入は、早ければ数年後らしいわね」
 凍結保管《コールドスリープ》は希望の光に見えた。でもすぐに、それが蜃気楼みたいな光だと気付いた。
 数年後、という実現までの時間。朝綺に残された、命の残り時間。
「間に合わねえんだよ。数年後じゃダメなんだ。おれの体は、そんなに長く待ってられない。人体実験でもいい。少しでも治療の希望が持てるのなら、おれは……だって、おれは……まだ、死にたくねえんだ……」
 声が震えた。呼吸が乱れた。朝綺は目を閉じた。
 あたしはギュッとこぶしを握った。あたしが変えるって決めた。希望のおとぎ話を、現実に。ラフに託された願いを、現実に。
「しっかりしなさいよね。あたしがなんとかしてあげるから」
「え?」
「あたし、響告大医学部の大学院に、編入申請を出したのよ。来月には許可が下りるはずだわ。あたしが実績をあげて、あんたに治療のチャンスをつくってみせる」
 朝綺の目が見開かれる。驚き。戸惑い。たくさんの、複雑な感情。
「どうして?」
「あたしにしかできないからよ」
「確かに、特異高知能者《ギフテッド》のお姫さまなら、響告大の医学大学院にもソッコーで編入できるだろうけど」
「頭の話をしてるわけじゃないわよ。あたしも、あんたと同じなの」
「おれと同じ?」
「あんたはあたしのために、ネットの世界を征服する野心を捨てた。そう言ってた。あたしも同じ。あんたが今、生きてる。あたしが成果を出せば、これからも生きていられる。あんたのおかげで気付いた。自分がどうしてこんなふうに生まれてきたか、その意味に」
 あたしは、包帯を巻いた右手の親指を握り込んだ。
 痛い。現実の世界を生きているから、傷付いた肉体が、とても痛い。
 あたしは朝綺の目を見て言った。
「あんたがあたしのために、あたしを守ろうと決めたみたいに、あたしもあんたを守りたい。他人にわずらわされるのは嫌いだけど、それ以上に、あたし、孤独が嫌い。だから……」
 朝綺が震える声で言った。
「おれも、孤独は嫌いだ」
 知ってる。運命に、ひとりで耐えられなかったんでしょ? だから、シャリンであるあたしを呼んだんでしょ?
 あたしは深呼吸をした。朝綺の目をのぞき込む。
「あんた、二十一だっけ?」
「そうだけど。あんたじゃなくて、名前で呼んでもらえると嬉しいかな」
「朝綺」
「呼び捨てかよ。おれのほうが年上なのに」
「朝綺だって、うちのおにいちゃんのことを呼び捨てにするでしょ」
「まあ、そうだけど」
「とにかく。朝綺は、あたしより四つ上なのよね。よしっ!」
 あたしは朝綺に人差し指を突き付けた。
「え、なに?」
「四年よ。あんたの病気を治す方法を、四年で完成させてみせる。だから、四年間だけ凍ってなさい」
 約束だから。絶対だから。あんたを孤独に死なせたりなんかしない。
 朝綺がまぶしそうに微笑んだ。
「サンキュ」
 その生きた笑顔を、あたしが守ってみせるから。
 朝綺に触れてみたい。不意に、あたしはそう思う。架空の世界の冒険の間、何度も触れたけれど、本物の朝綺とは触れ合っていなくて。
 手を伸ばせば届く距離。でも、あたしが手を伸ばさないと、触れてもらえない。
「ねえ、指切りしよう?」
 びっくりした顔の朝綺は、すぐに微笑んだ。
 あたしは、朝綺の動かない腕を支えて、右手の小指をからめる。包帯を巻いた、あたしの右手。関節が目立つ、朝綺の右手。
 ちょっとひんやりした朝綺の小指は、キュッと、あたしの小指をつかまえた。
「指切りげんまん」
 初めて、触れ合えた。
 おにいちゃんの声が聞こえた。料理の注文をすませてテラスに戻ってくる。朝綺は、おにいちゃんのほうを向いて応える。
 日光を受ける朝綺の横顔のほっぺたに、一文字の傷がクッキリと輝いた。