あたしは思い切って、朝綺と正面から向かい合った。テーブル越しの距離は、遠いようで近い。
 さっき、気付いたことがあった。展示室の独特の照明を浴びながら、朝綺の顔に、うっすらとした傷跡があるのが見えた。ラフと同じで、右のほっぺたに一文字の傷跡がある。
「その右のほっぺたの傷、どうしたの?」
「ああ、これ? 子どものころに、鉄棒から落ちたときの傷。頭から落ちて、小石に顔をぶつけてさ」
「鉄棒?」
「やっぱ、驚くよな。こんな身動きとれない人間が鉄棒やってたとか」
「だって、あの……」
「いいよ、何でも訊いて。おれさ、九歳のころまでは、鉄棒や縄跳びもできてたんだ。十歳の一年間で、急にいろいろできなくなった。鉄棒も縄跳びも、走ることも。ライフスタイルの変化も関係あったかな。飛び級して中学に上がった年だったから」
 秋風が吹いた。カフェのほうから、コーヒーの香りが流れてくる。現実なんだって気付く。ニコルが淹れるコーヒーは、香りがなかった。
 朝綺の髪が柔らかそうにそよいだ。
「じゃあ、いろいろ訊いていい?」
「どうぞ」
「なんで、飛び級なんかしようと思ったの?」
「そりゃあ、おれの時間は限られてるし」
「時間があったら、飛び級しなかった?」
「したくなかったな」
「なんで、エリートアカデミーじゃなくて、普通の進学コースを?」
「できるだけ普通がよかったんだ。特別扱いされたくなかった。だって、おれ、特別なんかじゃないぜ?」
「特異高知能者《ギフテッド》なのに?」
「IQの数値だけで自動的にランク分けってさ、好きじゃねえから。つうか、意味ねぇだろ。つまんねぇし」
 正論すぎて、あたしは言葉に詰まる。
 朝綺は続ける。
「おれの希望に合う学校を、全国くまなく探し回ったんだ。病気持ちの特異高知能者《ギフテッド》を普通学級に置いてほしいって希望、そうそう叶えてもらえなくてさ。まあ、苦労して探した甲斐はあったと思ってる」
 不思議な人だ。健康で力強いエネルギーが、生まれつき病んでいる体から沸いてくる。病気だから、ではないんだろう。朝綺はもともとこういう人なんだ。
 あたしはボタンを掛け違えてたんだ。敷かれたレールをただ走った。レールを敷いた両親を逆恨みした。
 バカよね。あたしが自分で探そうとしなかっただけ。自分が何を望んでるのか、まじめに考えなかっただけ。探して、考えなきゃいけないんだ。あたしの居場所はどこにあるのか。
 現実は、ゲームとは違う。ログインすれば居場所が用意されてるなんて、そんな優遇された世界はゲームの中だけ。現実はそんなもんじゃない。
 立ち止まってしまったあたしは、ここからもう一回スタートし直さなきゃいけない。セーブしてたデータとは別の道を、レベル1から始めるんだ。
「なあ、お姫さま?」
 ドキッとする。ラフの声で、ラフの呼び方で、朝綺があたしを呼んだ。
「な、なによ?」
「学校、ずっと、つらかったんだろ? でも、界人はおれのせいで忙しいし、ご両親に相談できる状態じゃないみたいだし。だから、何があっても、お姫さまひとりで耐えてたんだよな?」
「べ、別に」
「ラフにいろいろ話してくれて、ありがとな。おれ、ほんとに聞くだけしかできなかったけど。お姫さまは、やっぱ強いよ」
「そんなんじゃない……」
 ラフである朝綺の声はキレイで繊細で優しくて、あたしは涙が出そうになる。
「実はおれもね、親とケンカしたんだ。中学のころ、ほんとにすげえ大ゲンカ。それで、高校からは家を出て一人暮らし。長らく家族と会ってないんだよ」
「親とケンカって、どうして?」
「筋ジストロフィーに関する見解の相違。自力での歩行やトレーニングは、筋肉を損傷する。損傷した筋肉を修復する機能は、おれには備わってない。どこまで自力で意地を張るかの線引きが難しくてね。そのへんの考え方が、おれと親とでバラバラだった」
 朝綺は、ひとつゆっくりと、まばたきをした。
 淡い表情だ。
 だんだん筋力が衰えていく朝綺は、遠くない将来に顔から一切の表情を失う。このキレイで切ない表情もなくしてしまう。
 あたしは両目に力をこめた。視線をそらさないように。涙をこぼさないように。
「あんたの病気は二十代が寿命だって聞いた。徐々に筋萎縮が進んで、最終的にはまぶたを開けることも、眼筋で視線を動かすこともできなくなる。呼吸器や心臓も」
「客観的に表現すると、そういうことだな。おれの感覚では、萎縮というより喪失だけどね。おれの二の腕や太ももはもう、おれの体に存在しない。まあ、皮膚感覚は残ってるから、変な具合なんだけど」
「治すための方法、探さないの?」
「おれの頭は医学向けじゃあなくてさ」
 あっさりした言い方。そんなの、嘘。口調はごまかせても、目はほんとのことしか言わない。
 あたしが見つめる前で、朝綺は長いまつげを伏せた。
「自力で立てなくなったのが、十四歳のころだ。一人暮らしを始めてすぐだった。つかまり立ちすらできなくなったのは、大学を卒業するころだから、十七のときか。その半年後には、車いすを転がすことができなくなった」
「今は?」
「最近は肺活量が落ち始めてる。心臓のほうは、血圧調整剤のおかげで、まだ数値は悪くない」
 あたしは右手の親指を噛んだ。喉の奥がゴツゴツして熱い。無理やり、涙を飲み下す。
 あきらめたみたいな悟ったみたいな、そんなの、あんたに似合わない。あんたは、ほんとは潔くない。ギリギリまであがこうとしてる。あたしはそれを知ってる。
「凍結保管《コールドスリープ》、でしょ?」
 朝綺は目を上げた。黒い目が秋の光を映し込んで透きとおってる。
「今、なんて言った?」