朝綺は、二の腕や太ももの筋肉がもうほとんど動かない。パジャマから着替えるのにも介助が必要ってことで、あたしは寝室の外へ追い出された。
「ど、どうしよう……」
 思考がストップしてる。ポニーテールの先っぽをいじり回しつつ右手の親指に噛みつきながら、あたしは寝室のドアの前でおろおろしてる。
 噛みついた右手の親指は包帯が巻かれてる。おにいちゃんが手当てしてくれた。
 おにいちゃんとニコルは、気が利いて便利なところがまったく同じだ。姿は違うけど、そんなの問題じゃない。おにいちゃんの手当もニコルの補助魔法も、あたしにはしっくりくる。
 でも、あたしと朝綺の関係って、シャリンとラフの関係とは違う。あたしはシャリンじゃないし、朝綺はラフじゃない。だから、旅の記憶を共有してても、結局、初対面だ。
 普通にしていたい。でも、普通って、なに?
 ふと。
 ドアが内側から開かれた。あたしは飛びのいた。
 朝綺が、肘置きとキャスターが付いた椅子に座ってる。おにいちゃんが椅子の背もたれを押してる。
 朝綺のコーデはさわやかなカジュアル系だ。オフホワイトのボタンダウンシャツ。ダメージ入りのジーンズ。ラフと同じキレイな顔立ちに、すごく似合ってる。
 あたしは一瞬、ものすごく不安になった。七分丈のTシャツとデニムのスカートって、変じゃないわよね? 子どもっぽい? あたしに似合ってる?
 朝綺はちょっとあたしから目をそらしてて、あたしも朝綺のほうをまっすぐ見られなくて、おにいちゃんだけが平常運転だ。
「麗、キッチンでお湯を沸かしといて」
「わ、わかった」
「はい、どいたどいた」
 椅子を押して、朝綺を洗面所へ連れて行く。
 あたしがキッチンに立ち尽くしてたら、おにいちゃんは一人でキッチンに戻ってきた。ひそひそした声で説明する。
「ドア、絶対に開けるなよ。朝綺は、麗には見られたくないはずだから」
「ど、ドア? えっ?」
「あのな、洗顔と髭剃りが全介助。トイレは、脱がして座らせてやった後、朝綺を一人にする。朝綺は腕を使えないから、紙で拭くことができない。ウォシュレットで洗って、送風で乾燥させる。当然、時間がかかる」
「…………」
 あたしは小さくうなずいた。
 おにいちゃんはひそひそと説明を続けた。
「ぼくはその間に、ベッドメイキングと寝室の掃除と朝食の準備。朝綺に呼ばれたら、朝綺がズボンを履くのを介助。それから朝食。日によっては、朝食まで一時間くらいかかるんだ。麗、おなか減ったらクッキーでもつまんでな」
 テーブルの上にはガラス瓶があって、クッキーが入ってる。おにいちゃんの手作りだ。
 あたしは気を取り直した。ポシェットから出したのは、ハンカチみたいに畳める素材のPC。それを広げながら、おにいちゃんに笑ってみせる。
「時間がかかるくらいで、むしろちょうどいいわ。あたしもやることがあるから」
 明精女子学院の退学届けは、昨日の夕方、提出しに行った。おにいちゃんが保護者として同行してくれた。
 万知が起こした一連の事件は世間に隠せなかった。退学者がたくさん出たみたい。詳しい報道なんて、見る気も起きないけど。
 そう、どうでもいいんだ。万知がどうなったのか、知るつもりもない。二度と出会わずにすむなら、邪魔されずにすむなら、それでいい。
 だって、あたしは行き先を見付けたから。
 やるべきことはたくさんある。エリートアカデミーの学位認定書の取り寄せ。特異高知能者《ギフテッド》証明書の発行。所定のフォームでの履歴書の作成。
 先方の教授とのメールで連絡を取って、試験と面接の日取りの設定する。これから学ぶべき分野を、基礎から徹底的に勉強する。
 あたしは大学院で研究をする道を選んだ。あたしなら、できる。