バトルモードが解除された。ストーリーモードのフィールドがアタシの前に現れる。もう、CGは乱れていない。これはラフが書いたシナリオの中だ。
 双剣がケアの両眼に突き立っていた。折れた角、むしられた鱗。翼と四肢と尻尾を斬り落とされた姿。ケアの喉が、ぜいぜいと、耳障りな音をたてる。
「殺せ……」
 誇り高い竜がすがるように言った。アタシは、ケアの姿を見ていられない。
「ラフ、やめてあげて」
 黒髪の野獣はケアの背中で、傷口からあふれる血をすすっている。
 アタシはケアの鈎爪を拾い上げた。重く尖った鈎爪の先端をケアの喉に押し当てる。鱗を失った首に、鈎爪が食い込む。
「さよなら」
 青い光が噴き出して、ケアは事切れた。
 無惨な死骸は次の瞬間、圧倒的な光と風を発する。
 画面いっぱいに白い光が満ちる。あたしは目を閉じた。シャリンが風を受ける振動が、コントローラに伝わってくる。
 あたしは待った。やがて、コントローラの振動が収まる。風が収まったんだ。目を開ける。光も収まっていた。
 ケアの巨大な死骸は消えてなくなっている。純白の雪原。踏み荒らされた痕跡すら、残っていない。
 雪原の上の空中に一本の剣が輝いている。
「あれがポリアフの剣?」
 細くまっすぐに伸びた刀身は、アタシが愛用する剣にも似ている。軽やかで、優美で、神秘的な剣だ。
 アタシはポリアフの剣のほうへ、一歩、進み出た。
 そのとき。
「シャリン、危ない!」
 ニコルが叫んだ。
 横合いから衝撃が来た。アタシは雪の上に転がった。吹っ飛ばされた体を、荒々しい手が引きずり寄せた。
「え……」
 らんらんとした赤い目が、それはそれは楽しそうに、アタシを見下ろしている。アタシは首を絞められて動けない。
「SH_N_e」
 野獣の口が人の言葉を発した。
 死ね? 殺されるの? アタシ、ラフの手で殺されるの?
「やだ、なにこれ! コントロール利かない」
 あたしは焦って、でたらめにコマンドを入力した。まただ。シャリンが反応しない。あたしは唇を噛んだ。
「これがシナリオだっていうの? 何がやりたいのよ、ラフ!」
 アタシは自分に迫る赤い目をにらみつけた。
 そんな時間が、数秒。
 突然、野獣の体が浮き上がった。アタシの体が解放される。
「どういうこと?」
 アタシは肘をついて上体を起こした。
 野獣は緑色のツタに縛り上げられていた。憤怒に顔を歪めて、からみつくツタを引きちぎろうとする。ツタは、ズタズタにされるそばから猛烈な勢いで再び伸びる。
 人の言葉をなさない呻き声が、雪原を這い回った。ラフの口から漏れるのは、もう、あの繊細な声じゃない。
「違う。こんなのラフじゃない。アタシの知ってるラフじゃないわ」
 目の奥が熱い。涙があふれた。
 聞き慣れた明るい声が、くすくすと笑った。
「うん、そうだね。コレはもうラフじゃない。この世界での存在を許されない、哀れな化け物だよ」
 もがく野獣の体の向こうで、少年とも少女ともつかない声が笑ってる。
「ニコル?」
「でも、コレのデータを消しちゃうなんて、もったいないでしょ。せっかくここまで一緒に来たのに。だから、こうしちゃうのはどうかなあ?」
 赤黒い紋様が隙間なく刻まれた胸から、白銀の刃が飛び出した。野獣の赤い目が見開かれる。
「……何が、起こったの?」
 野獣の胸から飛び出した白銀の刃。細身の剣の切っ先だ。
 切っ先は真っ白な冷気を発した。赤黒い皮膚が、ぴしぴしと音をたてる。音をたてて凍っていく。
 ニコルが、凍結していく野獣の体から、後ずさって離れた。
「刺したの? ポリアフの剣で、ラフを刺したのね?」
 ニコルが静かに微笑んでいる。
「だって、これがラフの望みだもの」
 アタシの目の前でラフが凍る。赤黒い紋様はそのままに、鍛えられた長身が、一文字傷の右のほっぺたが、長い黒髪が、凍る。
 見開かれた赤い目に、柔らかな水が盛り上がった。水は、赤い狂気を溶かした。ラフの目から、赤い涙がこぼれ落ちた。
 黒い瞳が、一瞬だけ、強く強くアタシを見つめた。
 そして。
 ラフは完全に凍結した。
 ニコルが言う。
「シャリン、これがラフの望んだ結末だったんだよ。ラフは……」
 言葉の途中で、アタシはニコルを殴り飛ばした。軽い体が雪の上に倒れる。アタシはニコルにつかみかかった。馬乗りになって、胸倉を押さえる。
「このぉ!」
 右手を振り上げる。ニコルは叫んだ。
「待て、麗!」
 うらら? あたしは画面の前で固まった。
「なんで、あたしの名前……」
「頼む、麗、話を聞いてくれ」
 ニコルがあたしに訴える。あたしはシャリンの口で、ニコルである何者かに訊く。
「誰なの? アンタ、誰なのよ?」
「ごめん! ぼくが黙ってることが多すぎて、麗のことを傷付けたかもしれない。謝る。だから、ぼくの話を聞いてくれ」
 ニコルの口調が違う。これが「中の人」の、本当の話し方? 似ても似つかない声なのに、アタシには、わかった。
「おにいちゃん……」
 真ん丸な緑の目を持つ少年キャラは、コンピュータ合成の子どもの声で、おにいちゃんの言葉を告げた。
「麗、夕方六時に夢飼いに来てくれ。全部、話すから」
 おとぎ話の冒険ごっこは、終わった。