雲の層を抜けると、フィールドは晴れ渡った。山道はまだ続くけど、空の中にいるみたいな景色だ。
夜。
星は、こっちへ迫ってきそうなくらいまばゆい。うっすらと白く流れる天の川。
山を登り始めてから、ニコルの料理はスープ系が多い。体を温めて、スタミナポイントを回復させる料理だ。
食事の後、アタシたちは焚き火を囲んだ。
「星が光る音が聞こえてきそうな景色ね」
「こんな星空、現実の日常じゃ、なかなか見られねえよな」
「星空だけじゃなくて、雪山も南国も熱帯雨林も火山もだよ」
「ほんと、こっちの世界が現実だったらいいのに」
ラフとニコルがアタシの顔をのぞき込んだ。
焚き火に照らされるシャリンの顔は、きっと、不機嫌そうな無表情だ。アタシはどんな顔すればいいかわからないから。
ピアズのヴィジュアルになじむようにデフォルメされてるとはいえ、シャリンの顔は風坂麗に似ている。だって、シャリンの顔は麗の3D写真から作ったんだもの。
ラフも同じだったらいいのに。ラフの繊細で端正な顔立ちもユーザに似せて作ってあれば、町ですれ違ったとき、アタシはラフに気付ける。
ニコルはどうかしら? でも、もし写真を使っているとしても、小さいころのものだ。ユーザの実年齢は絶対、ニコルの外見よりもずっと上のはず。
小首をかしげたニコルが、遠慮がちにアタシに言った。
「お姫さまは現実の世界がイヤになってるんだね」
「イヤでイヤで仕方がない。全部ぶっ壊したい」
「この前メッセージで話してくれた件?」
そう。アタシはついに話した。ラフとニコルに、現実のアタシのことを全部。
特異高知能者《ギフテッド》として受けてきた扱い。誰にも言わずに隠してきた学校生活。退屈で憂鬱な日常が一人の女によって破られたこと。悪の証明と、凄惨なパフォーマンスと、揺るぎない真理。殺されかけて、生きたいと願ったこと。引きこもって絶望的な、今。
ピアズの世界でたった四時間、楽しく過ごすために、残りの二十時間を暗闇の中で眠って、やり過ごしている。
「変よね、アタシ。現実のほうでは誰にも話してないの。兄と同居してるんだけど、兄にも何も言ってない。本当は真っ先に言わなきゃいけなかったのに」
「……ボクは、それでもいいと思う。シャリンが話せるようになってから、おにいさんに話せばいいよ。今は立ち止まってても、大丈夫なんじゃないかな?」
「兄には迷惑かけてる。最近、兄の顔を見れないの。自分が情けなくて」
「それは、迷惑っていうより心配だね。すごく心配してる……と思う」
アタシは深呼吸した。リップパッチが、深呼吸の音を拾った。スピーカから自分の吐息が聞こえた。
「ほんと、おかしいわ。アタシ、なんで顔の見えない相手にこんなプライベートな話をしてるの?」
「顔の見えない相手だから、話せるんじゃないかな。もちろん、誰にでもなんでも話すのは危険だよ。でも、ボクはシャリンの役に立てたら嬉しい。ボクはなんでも聞けるよ、シャリン」
「でも、それって、どこまで話していいんだかわからない。誰が危険で、何を話すのが危険?アタシはどうやったらアタシを守れるの? 怖いわね」
ラフが口を開いた。
「怖いって? 近付きすぎるのが怖いってことか?」
「怖いわ。だって、普通こんなにベラベラしゃべれない。ここでは、言葉がどんどん出てきてしまうの。アタシ、目の前に人間がいて、その人間に向かってしゃべるときには、身構えるの。アタシはうまく言葉を使えないから。言葉、探すのが難しいときがある」
「誰だってそうさ。目の前にいる人間を傷付けないために、言葉を探すよ」
じゃあ、どうして? どうしてアタシの感覚は他人の普通とは違うの?
「アタシは、相手の表情や言葉から計算したり推測したりする。頭を使うの。反射的にまともなことを言えない。本能的に当然の言葉を返せない。だから」
「そうやって自覚して、頑張ってんだろ?」
「それでも理解できない場面があって。たくさんあって。失敗ばっかりで。アタシが答えを間違っても怒らないのは、兄だけ。それ以外の相手は一回間違えたら、アタシを変人扱いする」
「オレは、シャリンが一回間違えたくらいで、変人だとは思わない」
ラフもニコルも、今はアタシを、お姫さまじゃなくてシャリンって呼んだ。でも、あたしは、本当はシャリンというキャラクターじゃない。
「ピアズでは、アバターの仮面をかぶれる。アタシは素のままのアタシじゃなくて、シャリンになりきってて、話したいことを話してる。相手の表情を見ないまま、頭を使ってコミュニケーションの最適解を求めもせずに」
「話せよ。大丈夫だよ。そんなに不安になるな」
優しくされると嬉しくて、そして怖い。
「三十年くらい前は、こういう通信型ゲームばっかりだったのよね? トラブルも犯罪も起こりまくったって、よくわかるわ。知らない相手を信じすぎてしまうの」
ラフとニコルに「会おう」と言われたら、アタシはのこのこ出かけていく。たとえ二人に下心があったとしても、アタシは見破れない。
ニコルがポツリとつぶやいた。
「知らない相手、か」
夜。
星は、こっちへ迫ってきそうなくらいまばゆい。うっすらと白く流れる天の川。
山を登り始めてから、ニコルの料理はスープ系が多い。体を温めて、スタミナポイントを回復させる料理だ。
食事の後、アタシたちは焚き火を囲んだ。
「星が光る音が聞こえてきそうな景色ね」
「こんな星空、現実の日常じゃ、なかなか見られねえよな」
「星空だけじゃなくて、雪山も南国も熱帯雨林も火山もだよ」
「ほんと、こっちの世界が現実だったらいいのに」
ラフとニコルがアタシの顔をのぞき込んだ。
焚き火に照らされるシャリンの顔は、きっと、不機嫌そうな無表情だ。アタシはどんな顔すればいいかわからないから。
ピアズのヴィジュアルになじむようにデフォルメされてるとはいえ、シャリンの顔は風坂麗に似ている。だって、シャリンの顔は麗の3D写真から作ったんだもの。
ラフも同じだったらいいのに。ラフの繊細で端正な顔立ちもユーザに似せて作ってあれば、町ですれ違ったとき、アタシはラフに気付ける。
ニコルはどうかしら? でも、もし写真を使っているとしても、小さいころのものだ。ユーザの実年齢は絶対、ニコルの外見よりもずっと上のはず。
小首をかしげたニコルが、遠慮がちにアタシに言った。
「お姫さまは現実の世界がイヤになってるんだね」
「イヤでイヤで仕方がない。全部ぶっ壊したい」
「この前メッセージで話してくれた件?」
そう。アタシはついに話した。ラフとニコルに、現実のアタシのことを全部。
特異高知能者《ギフテッド》として受けてきた扱い。誰にも言わずに隠してきた学校生活。退屈で憂鬱な日常が一人の女によって破られたこと。悪の証明と、凄惨なパフォーマンスと、揺るぎない真理。殺されかけて、生きたいと願ったこと。引きこもって絶望的な、今。
ピアズの世界でたった四時間、楽しく過ごすために、残りの二十時間を暗闇の中で眠って、やり過ごしている。
「変よね、アタシ。現実のほうでは誰にも話してないの。兄と同居してるんだけど、兄にも何も言ってない。本当は真っ先に言わなきゃいけなかったのに」
「……ボクは、それでもいいと思う。シャリンが話せるようになってから、おにいさんに話せばいいよ。今は立ち止まってても、大丈夫なんじゃないかな?」
「兄には迷惑かけてる。最近、兄の顔を見れないの。自分が情けなくて」
「それは、迷惑っていうより心配だね。すごく心配してる……と思う」
アタシは深呼吸した。リップパッチが、深呼吸の音を拾った。スピーカから自分の吐息が聞こえた。
「ほんと、おかしいわ。アタシ、なんで顔の見えない相手にこんなプライベートな話をしてるの?」
「顔の見えない相手だから、話せるんじゃないかな。もちろん、誰にでもなんでも話すのは危険だよ。でも、ボクはシャリンの役に立てたら嬉しい。ボクはなんでも聞けるよ、シャリン」
「でも、それって、どこまで話していいんだかわからない。誰が危険で、何を話すのが危険?アタシはどうやったらアタシを守れるの? 怖いわね」
ラフが口を開いた。
「怖いって? 近付きすぎるのが怖いってことか?」
「怖いわ。だって、普通こんなにベラベラしゃべれない。ここでは、言葉がどんどん出てきてしまうの。アタシ、目の前に人間がいて、その人間に向かってしゃべるときには、身構えるの。アタシはうまく言葉を使えないから。言葉、探すのが難しいときがある」
「誰だってそうさ。目の前にいる人間を傷付けないために、言葉を探すよ」
じゃあ、どうして? どうしてアタシの感覚は他人の普通とは違うの?
「アタシは、相手の表情や言葉から計算したり推測したりする。頭を使うの。反射的にまともなことを言えない。本能的に当然の言葉を返せない。だから」
「そうやって自覚して、頑張ってんだろ?」
「それでも理解できない場面があって。たくさんあって。失敗ばっかりで。アタシが答えを間違っても怒らないのは、兄だけ。それ以外の相手は一回間違えたら、アタシを変人扱いする」
「オレは、シャリンが一回間違えたくらいで、変人だとは思わない」
ラフもニコルも、今はアタシを、お姫さまじゃなくてシャリンって呼んだ。でも、あたしは、本当はシャリンというキャラクターじゃない。
「ピアズでは、アバターの仮面をかぶれる。アタシは素のままのアタシじゃなくて、シャリンになりきってて、話したいことを話してる。相手の表情を見ないまま、頭を使ってコミュニケーションの最適解を求めもせずに」
「話せよ。大丈夫だよ。そんなに不安になるな」
優しくされると嬉しくて、そして怖い。
「三十年くらい前は、こういう通信型ゲームばっかりだったのよね? トラブルも犯罪も起こりまくったって、よくわかるわ。知らない相手を信じすぎてしまうの」
ラフとニコルに「会おう」と言われたら、アタシはのこのこ出かけていく。たとえ二人に下心があったとしても、アタシは見破れない。
ニコルがポツリとつぶやいた。
「知らない相手、か」