万知が迫ってくる。キスをせがむみたいな、甘い声。近すぎる顔。
「風坂なら、わかってくれるかな? わたしが発狂しそうなほどにこの世界に恋をしていること。風坂ならわかってくれるよね?」
 体から重心が消えた。
 次の瞬間、背中を地面に叩き付けられた。衝撃が内臓を突き抜ける。
 息が止まった。胃がひっくり返りかける。
 ユリの花が耳のそばで揺れた。
 万知があたしに馬乗りになった。重い。苦しい。身動きできない。
「風坂の不幸そうな顔が好き。ほんとに大好き。正直で、うらやましい」
 必死で声を絞り出す。
「あたしは……不幸なんかじゃ、ない……」
「不幸だよ。中途半端でさ、どこにも居場所がないんだ。できそこないの、迷子の神さまだ。ねえ、わたしと同じ」
 万知があたしの首筋に唇を寄せた。ゾワッ、と全身が寒くなる。
「……や、やめて」
「やめない。興味があるんだ。初めてだから」
「は、初めて……?」
「そう。人を殺すのは初めて」
 万知は体を起こした。微笑んで、あたしを見下ろす。らんらんと光る、本気の目。
 ……い、イヤ……っ。
 声が出ない。体が動かない。
 違う、動かないはずはない。こんなに震えているのに。
 熱っぽい万知の手のひらがあたしの首筋を包んだ。
「わたしは孤独だよ。わたしの真理は、わたしにしか到達し得ないレベルにあるんだ。万人と共有できるのは、ごく原始的な事象における真理だけ。でもね、だからこそ、わたしは万人に理解させてあげたいの。この不条理な世界にも、揺るぎない真理があるってことを」
 万知は、くつくつと笑いを漏らした。
 あたしの息が切れ始めている。万知の体重がお腹を圧迫して、苦しい。あたしを見下ろしながら、万知はサラリと言った。
「揺るぎない真理。たとえば、そう。『あらゆる生物は殺せば死ぬってこと』とかね」
 万知の目に、暴走する知性と崩壊した理性が、光っている。
 つかまれた首筋が、いきなり、強烈に圧迫された。
「殺せば、行き着く先はみんな同じ。死ぬんだよ。こんなに不条理でバラバラな世の中で、あらゆる存在が同じ結末を迎える。すてきなことだと思わない? わたしのこの手が死という真理を生み出して、どんな愚か者でさえそれを理解し、共有することができるんだよ」
 痛みが来て、痺れが来て、苦しさが来た。
 頭蓋骨の中身が膨れ上がっていくような感覚。すぅっと、浮かび上がりながら沈んでいくみたいな、消えてしまいそうな意識。
「愛してるよ。愛してるんだよ。わたしは、わたしを孤独にするこの世界のすべてを。ねえ、だから、早く認めてよ。わたしは神に等しいって、早くわたしを愛してよ!」
 助けて……と、誰かが叫んだ。
 助けて!
 あたしだ。叫んでいるのは、あたしだ。
 必死に動かす指先に、何か硬いものが触れた。あたしはそれを握り込む。
 まだ、生きていたい……!
 渾身の力で、こぶしを振り上げた。振り回した。手応えがあった。
「うっ……」
 万知が呻いた。ガクリ、と万知の体が降ってくる。
 あたしは万知を押しのけながら、体を起こした。右手から、レンガの破片がこぼれ落ちた。立ち上がりかけて、バランスを崩す。頭を振って、めまいをはね飛ばす。咳が出た。
 万知は髪を乱して、ユリの中に倒れていた。背中は、規則正しく上下している。生きてるみたい。
 怖かった。愚かしいとも思った。
 葉鳴万知、あんたは結局、寂しいだけなの? それとも本当に、人間じゃない存在なの?
 神に等しいだなんて思わない。直感的な倫理が通じない相手なら、それは、悪魔って呼ばれるんじゃないの?
 あたしはあんたとは違う。あたしは人間だから。でも、人間としての普通になれないから。だから寂しい。それ以上でも、それ以下でもない。
 生きた花の香りが、狂気と荒廃の花園を満たしている。
 あたしは立ち上がった。ポニーテールの歪みを直す。ブラウスが汚れてることは、鏡を見なくてもわかった。
 でも、ブラウスの汚れなんて、どうでもいい。もう二度と、こんなブラウスを着ることはないから。
「すがすがしいほど絶望的ね」
 家に帰ったら、一生、引きこもって過ごそう。あたしはもう、外の世界に期待なんてしない。どうせ絶望にしか出会えない。