万知が静世を支えて職員室まで連れていったらしい。
 黒曜館の小部屋の中で一人にされたあたしは、右手の親指に噛みついた。体が震えて、止まらなかった。
 あたしは目がいい。視力がいいだけじゃない。視覚による情報処理能力が異常に高い。一瞬のうちに、たくさんの細かいものが見えすぎた。
 忘れたい。記憶を消したい。できない。ひとたび覚えた情報は、あたしの頭から消えることはない。あたしは特異高知能者《ギフテッド》だから。
 どれくらいの時間、震えて過ごしただろう? そう長くなかったかもしれない。
 ドアがノックされた。応えずにいたら、万知が顔をのぞかせた。
「邪魔するよ、風坂」
 ほくろのある口元が優しく笑った。あたしはすがりつくように万知の手を取って部屋を出て、北塔を上った。
 北塔はあたしだけの居場所だったのに、と途中で思った。引き返せないまま、いちばん上の天球室まで万知を連れていった。
「へえ。北塔のてっぺんにこんな場所があったとはね。風坂は空が好きなの?」
 万知が腕組みすると、ブラウスをパツパツにする胸が強調された。
 あたしは万知の胸のあたりばかり見て顔を見ないまま、大机に腰掛けた。
「……空じゃなくて、この場所」
「この場所って、天球室だっけ? 天球室そのものが好き?」
「そう。ここにいる限り、空は、あたしだけの、もの。それが好きなの」
 万知があたしの隣に腰を下ろした。
「風坂は、黒曜館の地下に温室があることを知ってる?」
「知ってる」
「前の代の学長が気に入ってたらしいね。この北塔も同じ。でも、五年くらい前に学長が代替わりして以来、北塔も温室も忘れ去られているそうだ」
「転校してきた、ばかりなのに、詳しいのね」
「まあね。過ごしやすい、自分だけの場所がほしくて、いろいろ調べた。その結果、温室はわたしのお気に入りの場所になったんだ。といっても、出入りし始めて数日しか経ってないけどね」
「なんで、編入してきたの? こんな、学校なのに」
 万知は答えず、あたしに質問で返した。
「風坂はエリートアカデミーを出てるんだろう?」
「ええ」
「風坂こそ、どうして明精女子学院に?」
「女子高生の制服、着てみたかった」
「本当?」
「半分くらい本当。家を出る口実がほしかった」
「風坂のスペックなら、大学や研究機関から招来の声がかかってたんじゃない?」
「研究には興味ないし。適当に選んだ先が、明精」
 万知は髪を掻き上げた。花の匂いがした。
「進もうと思えば、いくらでも進んでいけるでしょ。でも、風坂は足踏みすることを選んだ。歩みを止めている今を、時間の無駄とは感じない?」
「進みたくもない方向に進んで、労力を費やす、そっちのほうが、無駄でしょ」
「風坂は昔からずっとこんな感じだったの? 隔離されて特異高知能者《ギフテッド》のカリキュラムを組まれてた?」
「小学生のころは、普通の教室で授業。休み時間と、体育と、給食が、楽しみだった。まわりと違ってたのは、放課後だけよ。エリートアカデミーのプレスクールに通ってた」
「そんなかわいらしい小学校時代があったなんてね。今の風坂からは、想像がつかないな」
 万知は笑って、それから、わずかに表情を変えた。
「風坂は、人とコミュニケーションをとるのが難しい。面と向かって話すのが、ちょっとたどたどしいよね。そして、それだけじゃない。どこにいても、何をしてても、人とはペースが違う。でしょ?」
 特異高知能者《ギフテッド》は「普通」にはなれない。
 何かが、どこかが、うまく噛み合わない。
 いちばん噛み合わないのは両親だ。彼らがなぜあたしに物事の順番ややり方を教え込もうとするのか、理解できなかった。あたしにはあたしの順番があって、やり方があるのに。
 いつごろ気が付いたんだっけ? 普通にしてるつもりなのに、ひどく息苦しいってこと。
「あたしは、人と同じように、できない。クラスメイトのいる教室で授業を受けたり。放課後、部活したり寄り道したり。そんなの、シミュレーションゲームの中でしか体験したことがない」
「ゲーム? 好きなの?」
 うなずく。
 あたしがあたしのまま、普通に振る舞うことができる場所。それはゲームの中。閉ざされて創られたハコの中だけ。
「プログラムの隅から隅まで解析しながら、完全クリアするの。ランダムで出現するイベントやアイテムも、全部、計算できるから」
「計算が得意なんだ?」
「目に見える『絵』を数式に置き換えるの。定数や法則性がある絵なら全部、あたしにはわかる」
「へえ。おもしろい考え方だね。風坂が読み取るのが得意な絵って、例えば?」
「生活系のシミュレーションゲーム。ハイスコアが出るファッションコーディネート、言動、シチュエーション。いろいろ覚えた。社会勉強の代わりね。絵にして計算できる範囲なら、あたしにも世の中のことがわかる」