アリィキハとのバトル終了後。バトルフィールドが消滅すると、ラフが元に戻った。
「大丈夫なの?」
「へーきへーき。ご心配ありがと、お姫さま」
「べ、別に、心配なんか」
「それより、イベント発生の気配だぜ」
ラフが指差す先に、クラとイオがいる。クラはイオの前にひざまずいた。
「ねえさまの帰りを、ずっとお待ちしていました」
イオの、ナイフを持つ腕から力が抜けた。クラから目をそらす。
「アタイは盗みをした。里の掟を破った。親父がアタイを許すはずがない」
「いいえ。とうさまも、ねえさまの帰りを待っておられます」
「わからずやの親父となんか、顔を合わせたくない」
「里を出られる前、とうさまと、どんなお話をなさったのです?」
「男たちに交じって森へ入るのはやめろって。アタイに戦い方を教えたのは親父だぞ? そのくせ急に、もう戦うなと言ったんだ。しかも、このアタシに向かって……は、は、花嫁修業しろだなんて……っ!」
「ワタシにも、とうさまは同じ話をなさいました。一年と少し前、ワタシが成人の儀を迎えた夜に。時は満ちた、と」
「い、言うな!」
「ねえさま」
「姉と呼ぶのはやめろ! あ、アタイは、本当は、もっと前から勘づいてたんだ」
「もっと前から?」
「オマエ、自分の置かれた立場を知ってるんだろう? 親父がなぜオマエを引き取ったか。オマエは初めから候補だったんだ。アタイと結婚させるにふさわしい、と……」
クラは、すっと立ち上がった。一歩、進み出る。
「お聞きください」
クラはイオの両肩に手を掛けた。すぐ近くからまっすぐに見つめられたイオは、ひるんだみたいに半歩、後ろに下がる。でも、クラはイオを離さない。
「く、クラ?」
「ワタシには戦う力もなければ、長としての統率力もない。ワタシはそういう男です。あるのは、ネネの里への忠誠心だけです。イオさま、どうぞネネへお戻りください。ネネにはイオさまが必要です」
「……イヤだ、と言ったら?」
「おっしゃらないでください。無理やりアナタをさらって帰るしかなくなります」
ヒュウッと、ラフがかすれた口笛を鳴らした。
「男らしいじゃん! クラさんカッケぇ」
「アンタいちいちうるさいのよ。黙って見守れないわけ?」
「いやぁ、ついつい。お姫さまも憧れるだろ、こーいうシーン」
「そ、そんなこと……別に……」
ニコルが仕切った。
「二人とも、いい? 続き、進めまーす」
「イオさま、二心を持っていることをお許しください。ネネの里に対する忠誠心と、イオさまに対する忠誠心。ワタシは、その二心を持っています。幼いころから勝手にお慕いしてきたことを、どうぞご容赦ください」
「何が言いたい?」
「愛しています。めおとになってください」
「生意気なやつ……」
イオは短剣を地面に投げ落とした。そして、クラに抱きついた。クラがそっとイオの背中に腕を回した。
「イオさま」
「浮気したら殺す」
「はい」
一夜、明けた。アタシたちはネネの里を発つことにした。
ニコルは食材の買い物に出掛けた。ラフは、暇つぶしに双剣を研ぎ始めた。アタシは、立って腕組みをしたまま、ラフを見ていた。
ラフの姿が変わった。あの赤黒い呪いの紋様の範囲が広がっている。
初めて会ったとき、紋様はメイルの胸当てから少し、はみ出す程度だった。それから二回呪いを発動させて、胴体はおへそのラインより上が、腕は肘より上が、赤黒い紋様で埋め尽くされている。
「なぁに見とれてんだ?」
「見とれてるわけじゃないわよ」
「そうかな? 熱ぅいまなざしを感じたんだけど」
「バカ。ぶっ飛ばされたい?」
「遠慮しとく」
「あのね、アンタに訊きたいことがあるの。なんで呪いを設定したの? せっかくレベルやクラスを上げても、デリートされる運命なのよ?」
そもそも、どうやって呪いなんて設定できたの? ほとんどのユーザは、その存在さえ知らないのに。
もしかして、ラフの「中の人」はピアズの開発部の人?
ラフは剣を研ぐ手を止めずにささやいた。繊細な声だ。
「呪いを設定したのは、早いとこハイエストまで来たかったからだ。それと、終了の目安がほしかったから」
「終了?」
「ほら、ピアズは、家庭内完結のハコ型と違うだろ。ゲームをクリアするって概念がない。ユーザがクラスを上げるペースに合わせて、ステージも新しく増やされる。半永久的に遊べるゲームだ」
「そうね」
「オレはちょっとした訳ありでさ……いや、というか、まあ要するに、あんまり時間に余裕がないんだ。だから、呪いのチートな能力を設定した。デリートされるまで遊ぶって決めて、ハイエストクラスに上がってきた」
「でも、呪いがなくても、そこそこ強いでしょ。使わずに乗り切ってみたらどう?」
「んー、ハイアークラスまでは、呪いを使わずに来れたんだ。ハイエストは、このステージで二つめだけど」
「前も聞いたわ」
「一つ前のステージでは、大所帯のピア・パーティと一緒に行動してた。呪いは一回しか使わずにすんだんだけど、失敗したよ。もっと使ってやるべきだった」
「どういうこと?」
「オレがもったいぶってるうちに、ピアが三人ほどハジかれちゃってね。世話になってたのに、悪ぃことした。ハイエストまで来ると、ボス戦はやっぱ苦しいよ。ぶっちゃけた話、オレはそこまでコマンド速くないから」
「嘘ばっかり」
ラフは作業を止めて、剣を置いた。両方の手のひらを広げて、手のひらを黒い目で見つめる。生身の人間みたいな仕草だと、アタシは思った。
「嘘ならいいんだけどな。長いコマンドは厳しいんだ。十代のころみたいには、速い入力ができなくなっててさ」
「え。アンタ、オッサン? 声、肉声でしょ? 若い感じだけど?」
ラフは両手をグーにして、パーにして、またグーにした。
「詮索禁止。まあ、とにかく、お姫さまの足を引っ張らないように、頑張ってみるよ」
「呪いをやられると困るわ。アンタの動きが読めなくて、バトルに入れない」
「悪ぃ。アリィキハ戦では、オレ自身、どう動くかわからなかった。コントローラに従ってくれねえの。頭を狙うっていう指示だけしかコマンドできなかった」
コントローラに従わない?
「それって……」
ヤバいんじゃないの、って言おうとしたら。
「ところで、お姫さま。お出かけ前の朝シャンとか、しないの?」
「なっ……しないわよ、バカ!」
「のぞきイベントで、貧乳のよさに目覚めたかもしれねえ。なかなか衝撃だった」
「こんのぉ!」
アタシは、ラフが脱いでほったらかしにしているブーツを拾った。ラフ目がけて投げつける。
「おっと」
ラフは、あぐらの状態から機敏にジャンプした。はだしのまま、すたすた逃げ出す。
「あははは! そんなんじゃ当たんねえよ!」
ラフの笑い声を聞きながら、アタシは立ち尽くした。
ブーツを脱いだラフの脚。初めてちゃんと見たけど、脚にもビッシリと呪いの紋様が刻まれてた。
呪いの紋様が全身をくまなく覆うとき、デリートが始まる。
「アイツ……あとどれくらい、こっちの世界にいられるんだろう?」
夜中に雨が降ったみたいだった。朝には、もう空は晴れていた。地面はびしょ濡れだった。学校まで歩く途中、あたしは何度も水たまりを踏んだ。
今朝は校門のそばに静世がいなかった。ホッとする。
中庭のバラは、地面に落ちたままだった。雨に濡れて泥まみれだ。
「やっぱり、イヤね」
ふと、かすかな声が聞こえた。吐息も聞こえた。その呼吸のリズムはせわしなくて、苦しそうで。
違う。苦しそう、じゃなくて。
あたしは忍び足で近付いた。
バラの垣根の小道を外れた場所。イトスギの木立に守られた、鳥カゴの形の藤棚。鳥カゴの中に人影がある。
あたしは息を呑んだ。足がすくんだ。
人影は二つある。もつれ合うみたいに、ぴったりと重なっている。
「いけないわ。わたし、これから……」
女の声が途切れる。
キス、している。
そして、別の女の声が応える。
「一校時、空き時間だよね、センセイ?」
「でも……」
「気持ちよさそうな顔してるよ」
「やめて」
「ねえ、センセイの部屋に行こうよ」
「だ、ダメよ、そんな……」
朝っぱらからなにやってんのよ。
明精女子学院には女子校ならではの恋愛があるっていう噂は、あたしも知ってた。でも、都市伝説だと思ってた。まさか事実だったなんて。
抱き合う二人が体勢を変えた。横顔が見えた。
出来静世と、葉鳴万知。
背の高い万知が静世に上を向かせて、キスをした。
「信じらんない」
足がふらついた。あたしは尻もちをつく。放り出したカバンが、音をたてた。
万知が素早く振り返った。静世がメガネの角度を直した。二人があたしを見た。
まずい、と思った。
あたしは立ち上がって駆け出した。一目散に、黒曜館の出入口へ。ドアに飛びつこうとして、足が止まる。
変なものが落ちている。
なに、これ?
匂いがする。血の匂い。腐った匂い。生ゴミみたいな匂い。
いきなり焦点が合った。あたしは、自分が何を見ているか理解した。
ネコの死骸。
あたしは口を押さえて後ずさった。視界の隅に別のものが映った。見たくない。でも、見てしまう。
一匹だけじゃなかったんだ。
「きゃああああっ!」
悲鳴が聞こえた。喉が痛んだ。叫んでるのはあたしだ。
匂い、匂い、匂い。その死が本物である証拠の匂い。
「風坂っ?」
万知が真っ先に駆けつけた。静世が続く。
この際、万知でも静世でも、誰でもよかった。あたしは万知の腕にすがりついた。群れになった死骸を指差す。
万知が息を呑んだ。静世はへたり込んだ。
死骸は鈴なりになっていた。モクレンの枝には、赤黒く濡れた哀れな毛むくじゃらが、いくつも、いくつも、いくつも。
万知が静世を支えて職員室まで連れていったらしい。
黒曜館の小部屋の中で一人にされたあたしは、右手の親指に噛みついた。体が震えて、止まらなかった。
あたしは目がいい。視力がいいだけじゃない。視覚による情報処理能力が異常に高い。一瞬のうちに、たくさんの細かいものが見えすぎた。
忘れたい。記憶を消したい。できない。ひとたび覚えた情報は、あたしの頭から消えることはない。あたしは特異高知能者《ギフテッド》だから。
どれくらいの時間、震えて過ごしただろう? そう長くなかったかもしれない。
ドアがノックされた。応えずにいたら、万知が顔をのぞかせた。
「邪魔するよ、風坂」
ほくろのある口元が優しく笑った。あたしはすがりつくように万知の手を取って部屋を出て、北塔を上った。
北塔はあたしだけの居場所だったのに、と途中で思った。引き返せないまま、いちばん上の天球室まで万知を連れていった。
「へえ。北塔のてっぺんにこんな場所があったとはね。風坂は空が好きなの?」
万知が腕組みすると、ブラウスをパツパツにする胸が強調された。
あたしは万知の胸のあたりばかり見て顔を見ないまま、大机に腰掛けた。
「……空じゃなくて、この場所」
「この場所って、天球室だっけ? 天球室そのものが好き?」
「そう。ここにいる限り、空は、あたしだけの、もの。それが好きなの」
万知があたしの隣に腰を下ろした。
「風坂は、黒曜館の地下に温室があることを知ってる?」
「知ってる」
「前の代の学長が気に入ってたらしいね。この北塔も同じ。でも、五年くらい前に学長が代替わりして以来、北塔も温室も忘れ去られているそうだ」
「転校してきた、ばかりなのに、詳しいのね」
「まあね。過ごしやすい、自分だけの場所がほしくて、いろいろ調べた。その結果、温室はわたしのお気に入りの場所になったんだ。といっても、出入りし始めて数日しか経ってないけどね」
「なんで、編入してきたの? こんな、学校なのに」
万知は答えず、あたしに質問で返した。
「風坂はエリートアカデミーを出てるんだろう?」
「ええ」
「風坂こそ、どうして明精女子学院に?」
「女子高生の制服、着てみたかった」
「本当?」
「半分くらい本当。家を出る口実がほしかった」
「風坂のスペックなら、大学や研究機関から招来の声がかかってたんじゃない?」
「研究には興味ないし。適当に選んだ先が、明精」
万知は髪を掻き上げた。花の匂いがした。
「進もうと思えば、いくらでも進んでいけるでしょ。でも、風坂は足踏みすることを選んだ。歩みを止めている今を、時間の無駄とは感じない?」
「進みたくもない方向に進んで、労力を費やす、そっちのほうが、無駄でしょ」
「風坂は昔からずっとこんな感じだったの? 隔離されて特異高知能者《ギフテッド》のカリキュラムを組まれてた?」
「小学生のころは、普通の教室で授業。休み時間と、体育と、給食が、楽しみだった。まわりと違ってたのは、放課後だけよ。エリートアカデミーのプレスクールに通ってた」
「そんなかわいらしい小学校時代があったなんてね。今の風坂からは、想像がつかないな」
万知は笑って、それから、わずかに表情を変えた。
「風坂は、人とコミュニケーションをとるのが難しい。面と向かって話すのが、ちょっとたどたどしいよね。そして、それだけじゃない。どこにいても、何をしてても、人とはペースが違う。でしょ?」
特異高知能者《ギフテッド》は「普通」にはなれない。
何かが、どこかが、うまく噛み合わない。
いちばん噛み合わないのは両親だ。彼らがなぜあたしに物事の順番ややり方を教え込もうとするのか、理解できなかった。あたしにはあたしの順番があって、やり方があるのに。
いつごろ気が付いたんだっけ? 普通にしてるつもりなのに、ひどく息苦しいってこと。
「あたしは、人と同じように、できない。クラスメイトのいる教室で授業を受けたり。放課後、部活したり寄り道したり。そんなの、シミュレーションゲームの中でしか体験したことがない」
「ゲーム? 好きなの?」
うなずく。
あたしがあたしのまま、普通に振る舞うことができる場所。それはゲームの中。閉ざされて創られたハコの中だけ。
「プログラムの隅から隅まで解析しながら、完全クリアするの。ランダムで出現するイベントやアイテムも、全部、計算できるから」
「計算が得意なんだ?」
「目に見える『絵』を数式に置き換えるの。定数や法則性がある絵なら全部、あたしにはわかる」
「へえ。おもしろい考え方だね。風坂が読み取るのが得意な絵って、例えば?」
「生活系のシミュレーションゲーム。ハイスコアが出るファッションコーディネート、言動、シチュエーション。いろいろ覚えた。社会勉強の代わりね。絵にして計算できる範囲なら、あたしにも世の中のことがわかる」
万知はほくろのあるあごをつまんで、あたしの目を見た。この絵は、無理だ。万知は、単純じゃない表情をしてる。何を考えてるのか、まったく読めない。
「風坂、さっきの続きを話してもらっていい?」
「続きって?」
「小学校を卒業した後に、本格的にEAに通い始めたの?」
「そうよ。同級生が中学に行く時期に、あたしはエリートアカデミーに通ってた」
「少人数制だよね? 授業の形態は大学みたいなシステムで、必要な授業を自分で選択して時間割を組むやつ」
「うん。ホームルームもなければ、同級生っていう概念もない」
「気楽だね」
「殺風景だった。つまんなかった」
「それはお気の毒」
あたしは深呼吸をして、封印していた記憶を頭の奥から取り出した。
「実家を離れて大学に行ってた兄が帰省したとき、いっぱい笑わされた。そしたら、あっという間にあごが痛くなって、顔の筋肉がつりそうになって、笑い方を忘れてた自分に気付いて。すごく、驚いた」
あたし以上に、おにいちゃんのほうが驚いてたかもしれない。こんなに笑ったのは久しぶりって言ったとき、おにいちゃんはすごく悲しそうな目をした。
「風坂にはおにいさんがいるんだ。いくつ上?」
「八つ上。両親に似て、普通レベルの秀才よ」
「普通レベルね」
万知は、くつくつと笑った。
「三年前のある日、あたしのことを、風坂家の突然変異って、親戚たちが言った。誰の遺伝子の恩恵なんだろう、って。あたしは、それを本気にした。遺伝子操作の結果に生み出された怪物かもって」
「優良遺伝子選別の試験管ベビーなんて、前世紀の都市伝説だよ。胚や胎児をいじるより、生後の教育を徹底するほうが、人材として優秀な人間が育つ。百年に一度の本物の天才は、ほっとかないと生まれてこない」
万知の正論を、三年前のあたしは知らなかった。誰かがそれを教えてくれたとしても、受け入れなかったと思う。
エリートアカデミーでは、目的もなく、大学院より高度な勉強をしていた。実際の大学院の倍のスピードで。ストレスばっかりの毎日だった。あたしは、あたしをエリートアカデミーに送り込んだ両親を逆恨みしていた。
あんな両親の子じゃなければいいのにと、いつも思っていた。そんなときに、突然変異だなんて言葉を聞いた。その言葉を信じたくなった。
「親に内緒でDNA検査をしたの。両親の髪の毛と、あたしの血液で。あたしは本当に両親の子なのか。あたしは本当に普通の生殖から産まれたのか」
「結果は?」
「両親から産まれた子だった。受精から出産まで、生物学の王道で。あたしもデータ検出の場に立ち会ったから、間違いない」
「よかったじゃないか」
「よくない。DNA検査したことが、親にバレたのよ。親は泣いてた。DNA検査って、要するに、あたしは親の存在意義を全否定したの。親はもうあたしを許してくれないと思う。今は兄と二人暮らしよ」
「なかなか壮絶だね。ねえ、今度おにいさんを紹介してよ。風坂のおにいさんなら、きっと美形でしょ。わたし今、彼氏いないんだ。誘惑してみちゃおうかな?」
「絶対イヤ」
「ブラコンなんだ?」
「あたしには、兄しかいないの。絶対、手出しさせない」
「わかったわかった。まあ、わたしは風坂と違って、なんでも持ってるし、人のものまで取らなくても平気だよ。両親とも仲がいいし、クラスの連中ともうまくやってるし、けっこうモテるしね」
何の前触れもなく、いきなり万知はあたしの肩をつかんだ。至近距離。
「ちょっ……」
「今朝、見てたよね」
「み、見てたって、なんのことよ?」
「わかってるくせに」
微笑んだ万知の唇が赤い。あごのほくろが妙に目を引く。
「は、離して」
「イヤ」
「あ、あんたと出来静世って、なんなの?」
「静世センセイは人気あるんだよね。だから落としてみたくなった。それだけ。でも、まあ、けっこういいよ、あの人。清楚ぶってるけど、実は相当で。ん? 風坂、照れてるの? 真っ赤だよ。かわいい」
「バ、バカにしないで!」
「バカになんかしないよ。ねえ、風坂は、もちろんフリーだよね?」
「あ、当たり前じゃないのっ。こんな、女子校で……っ」
「異性愛者なんだ? もったいないなあ。あ、もしかして風坂、好きな男がいるの?」
「……か、関係ないっ」
あたしは全力で万知の腕から逃れた。
頭に浮かんだのは、あいつの姿だった。スラリとした長身の男。右の頬に傷があって、長い黒髪を一つに結んでて、二本の大剣を操っていて、呪いの紋様を肉体に刻んだ、バカ。
ラフがリアルの世界に存在すればいいのにって幼稚なことを、ついつい考えてしまう。シャリンじゃないあたしが、ラフと一緒に居られればいいのに。
でも、もしそれが実現したら、ラフが現実のあたしの前に現れたら。
それは残酷すぎる運命だ。呪いに蝕まれたラフの体は、近い将来、タイムリミットを迎えるのだから。
ゲームの中ですらラフのデリートは怖い。ましてや、それが現実になったら、あたしは、きっと耐えられない。
くすくすと、万知は笑い続けている。あたしがにらんだら、万知は唐突なことを言い出した。
「わたしが通っていたエリートアカデミーはね、風坂の母校よりもケアが行き届いていたよ」
「え?」
「わたしも、特異高知能者《ギフテッド》なの。風坂よりも高い能力を持った特異高知能者《ギフテッド》。わたしが特別だってこと、察してたでしょ?」
「と、特別って……」
「十歳で大学卒業と同じレベルの認定を受けた。それから、大学院の研究機関に籍を置いて、ついこの間、二つ目の博士号を取得したところ。分野は生物系と医学系の中間って感じかな。研究が一段落して、ここに編入してきたんだ」
ぐらり、と、足場が揺れたような気分だった。
あたし以外の特異高知能者《ギフテッド》が目の前にいる。しかも、あたし以上の高い能力を持ってるなんて。
ううん、関係ない。あたしは、あたしだ。
「……なんで、高校なんかに通おうと思ったの?」
「女子高生の制服を着てみたかったから。誰かさんと同じだよ。まあ、わたしの経歴なんて、どうでもいいことだね。テーマを変えよう」
「テーマ?」
万知は長い指をひらめかせた。指をナイフに見立てて、自分の首を掻き切る仕草をする。今朝のネコはみんなそうやって殺されていた。
「ねえ、風坂。事件の真相を、どう考える?」
「……さあ?」
「パフォーマンスかな。そう思わない?」
「そう、ね」
「何を表現するためのパフォーマンスなんだろう?」
楽しそうな万知の様子が、あたしには理解できない。据わりが悪くて、適当に答える。
「あんたが前に言ってた、悪ってやつじゃないの?」
狂気、欲望、衝動。そういう後ろ暗いモノのことを、万知は悪と呼んだ。人間はみんな悪を内包しているはずだ、と。
「風坂のその頭脳が弾き出す推論は、それだけ?」
万知が大げさに両腕を広げた。
頭に血が上るのがわかる。あたしは息を吸って吐いた。三つ数える。喉と舌が動くことを確かめる。大丈夫。これは議論だ。あたしはしゃべれる。
「推論も何もないわよ。倫理なんて、直感でしょ。ネコのあんな姿を見て平然としてられる人間がいるなら、そいつはどうかしてるわ」
「なんだ、逆にそっちを論じるんだ。拍子抜けだな」
「逆にそっち?」
万知が長身をかがめてあたしに顔を寄せた。笑顔。花の匂い。
「論点がズレた、と自分では感じない?」
「ズレてないわよ」
「あのパフォーマンスを為した者の側を論じていたのではないの? なぜ、為されたネコの側に力点を置く?」
あたしは首を左右に振った。
論点は、ズレてなんかない。あの哀れなネコたちを見たとき、最初に感じたのは痛ましさだ。理屈じゃない。本能や直感がけたたましい警告を発した。
あんなことは、為されてはならない。為す者の心理なんて、考えちゃいけない。
「あんたの論点は普通じゃないわ」
「当然だよ。普通なわけがない。普通の次元で議論して、なんになるの? わたしと風坂なら、もっと高度でおもしろい議論ができるはずなんだ。風坂、わたしは真理を語り合える仲間がほしい」
あたしは目をそらした。
万知には、ついていけない。雄弁さにも、神経の太さにも。
胸が、ちりっとした。劣等感みたいなものが、あたしの中にある。そんなバカな。今、あたしは勝負なんかしてない。あたしは負けてない。
「あたし、ディスカッションもディベートも嫌いなの。トレーニングは受けたけど、楽しくない」
あたしの拒絶を、万知はあっさりと受け入れた。
「そう。悪かった。じゃあ、別のことをしよう」
再び、不意に触れられる。万知の長い指があたしの下あごをつまんだ。
「な、なによ?」
「ね、キスしていい?」
「や……」
「静世センセイってさ、わたしの言いなりなんだ。ちょっとおもしろみに欠けるよね。風坂は、もっと抵抗してくれるでしょ?」
全身に悪寒が走った。声が出ない。万知の手を払いのける。
あたしをそんな目で見ないで!
女だとか男だとか、きっと関係ない。ただ、性の対象として見られることが、汚れてしまうことのようで、イヤで。
あたしはカバンをひっつかんで、天球室を飛び出した。腹が立ってたまらない。胃がひっくり返りそう。
万知に一瞬でも気を許した自分を、呪いたくなる。あたしにキスする? なにさまのつもり? あたしのキスは。
ご褒美のキスはいつでも受け付けるよ。
あいつとの約束。
違うのに。あたしのキスじゃないのに。シャリンのキスなのに。
あいつだってシャリンに変なことを言うし、いやらしいところがあるし、バカだし、むかつくし。
でも、あいつと万知では全然違う。あたしは、あいつなら怖くない。
わけ、わかんない。
螺旋階段を駆け下りて、中庭に続く扉に突進した。手のひらをプレートにかざす。おかしい。掌紋認識の電子キーが解除されない。
背後で声がした。
「風坂さん、中庭には出ないでと言ったはずよ。その扉は主電源を落としてあるわ」
あたしは振り返った。柱の陰から、静世が出てきた。
「暇そうね」
「ええ、今日は授業がないのよ。例のネコの件、騒ぎになっているの。黒曜館にいてはわからないでしょうけど。一瞬で校内に噂が広まって、大変なのよ」
「そこどいて」
「どこへ行くの?」
「関係ないでしょ」
「わたしは、風坂さんの動向を見ておくように指示されているの」
「家に帰る。どいて」
静世は神経質そうにメガネの角度を直した。
「葉鳴さんは上にいるのね? 二人で何を話していたの?」
「別に」
静世は目を細めた。
「葉鳴さんがあなたを心配していたわ。あなたは孤独すぎる、と。確かにそうね」
「孤独?」
「ストレスがたまっているでしょう? 特異高知能者《ギフテッド》のカリキュラムは大変だもの。どうやってストレスを発散しているの? 先生に教えてくれない?」
「……何が、言いたいの?」
「あなたの居室に、首のないぬいぐるみが転がっていたわ。風坂さんは、ナイフを使うのが好きなのかしら? あのぬいぐるみは、今朝のネコのための予行練習だったの?」
あたしは一瞬、めまいがした。急速に頭に血が上ったせいだ。
「あ、あんたは、あた……あたしが、あんな低俗なことを、やったと、い言いたいのっ?」
「そんなことないわよ。特異高知能者《ギフテッド》である風坂さんの考えは高尚よね。わたしには想像もつかないの。ゆっくり話す時間をもらえないかしら?」
メガネの奥の冷ややかな笑み。圧倒的な敵意。
来ないで。あたしに近寄らないで。
怖い。
静世はゆっくり、あたしのほうへやって来る。あたしは足がすくんでる。
イヤだ。
静世の手があたしの肩に触れようとする。
イヤだ!
寸前で、あたしの体が動いた。あたしは静世の手を振り払った。
「待ちなさい、風坂さん!」
あたしは駆け出した。回廊を走って、廊下を走って、黒鋼の校門を抜けて、広すぎる敷地を抜けて、町の中を走って走って走った。
家に飛び込むまで、足を止めなかった。
おにいちゃんは家にいた。ただごとじゃないあたしの様子に目を白黒させて、掃除機をほっぽり出して飛んできた。
「う、麗? どうしたんだ? 具合悪いのか? ひょっとして痴漢にでも遭ったか? そうなのか? どこをさわられた?」
勝手に慌て始めたおにいちゃんを、あたしはカバンで一発、ぶん殴った。
「おにいちゃんのバカ! そんなんじゃないわよ。あの……が、学校が面倒で、抜けてきただけよ」
こんなこと、初めてだ。だから、おにいちゃんも戸惑ってる。あたしの嘘なんか見抜いてるんだろうけど、お説教しようとはしない。
「え? そ、そっか。まあ、麗がなんともないなら、別にいいんだけど」
「あ、あのっ、あのね……」
「ん?」
「……の、喉が、渇いた。レモンスカッシュ飲みたい」
おにいちゃんがキョトンとして、それから、いつもの顔でにっこりする。
「今、炭酸を切らしてるんだ。買ってこようか?」
「十分以内に帰ってきて」
あたしをあんまり長くひとりにしないで。
部屋のドアを閉めて、制服を脱ぎ捨てる。
「行ってきまーす」
おにいちゃんの声に、ショートパンツをはきながら返事をする。
「行ってらっしゃい」
パタン、と玄関のドアが閉まった。あたしはひとりになった。起動していないPCのディスプレイに、あたしの顔が映っている。
「会いたい」
ラフに会いたい。ニコルに会いたい。今すぐ会いたい。
PCを立ち上げる。ピアズのサイドワールドに入る。メッセージボックスを開く。
あたしがアドレスを教えた相手は今までで、ラフとニコルだけだ。ボックスには、運営からのメッセージがたまってる。
新着はない。
「当たり前よね」
毎日オンライン本編で会ってる相手に、わざわ、メッセージなんか送らないわよね。何を期待してたんだろ、あたし。
あたしがログアウトしようとした、まさにそのとき。
ぴろり~ん。
間の抜けた効果音が鳴った。ディスプレイに現れた表示は、“NEW MESSAGE”。新着メッセージ、って。
あたしはドキドキして、メッセージを開いて……ちょっとだけ、がっかりしてしまった。ごめん、ニコル。
シャリンへ;
ニコルです
そういえばメッセージ送ったことなかったなあ、と思って
別に用事があるわけではないんだけどね
ボクはメッセージで人と話すのが好きなので
気が向いたら、シャリンも何か話してよ
じゃあ、八時にホヌアで
ニコルより
「測ったようなタイミングね。ありがと、ニコル」
あたしは、どう返信しようか考えてみた。
落ち込んでるって、話しちゃえばいい?
ねえ、聞いてほしい。学校でハードなことがあったの。学校、つらいの。逃げたい。もうイヤって言いたい。
あたし、このままじゃ、どうやって生きていけばいいのかわかんない。
ラフとニコルに全部、話せたらいいのに。そして、あいつらが、あたしを助けてくれたらいいのに。あたしをこの日常から連れ去って、あのワクワクする冒険の中に、一生、閉じ込めてくれたらいいのに。
「たまには外食しようか」
そんなことを、おにいちゃんが急に言い出した。あたしの様子がおかしいせいよね。夜勤続きで疲れてるくせに、今日は昼寝もしなかったみたい。
おにいちゃんの母校、響告大学のキャンパスのすぐそばに「ドリームキーパー」というお店がある。定食メニューがたくさんあるお店だ。BGMは、二十一世紀の初めに人気があったっていうレトロなロック。
「大学時代にサークルのアフターで利用してたんだ。学食より遅くまで営業してるし、そこそこお手頃な値段だしね」
初めてあたしをこの店に連れてきたとき、おにいちゃんはそう紹介した。それと、この定食屋が「夢飼い」って呼ばれることも。
おにいちゃんが大学時代に入ってたのは、ゲームを創作するサークルで、おにいちゃんははサークル内の便利屋だったらしい。
工学部のおにいちゃんは、プログラミング全般をわかってた。絵を描くことも好きで、CG製作も得意だった。高校時代は演劇部だったから、キャラボイスも引き受けてた。ボイスチェンジャーを駆使して、老若男女いろいろ演じた。
うらやましい。ゲームを創るサークル活動なら、あたしもやってみたい。
「さて、何を食おうかな?」
おにいちゃんは、水のグラスと一緒に運ばれてきたメニューを開いた。メニューをわざわざあたしに向けてくれる。あたし、全部覚えてるから、眺める必要ないんだけど。
夢飼いの料理は野菜たっぷりで、盛り付けもカラフルだ。味は天然素材のスパイスが効いてて、かなり好き。
あたしはポークジンジャー定食、おにいちゃんはチキン照り焼き定食を選んだ。
おにいちゃんがちょっと身を乗り出した。
「麗、もうすぐ体育祭だろ? 確か来月の……」
「来なくていい」
「え? でも」
「去年と同じよ。おもしろくもなんともないし、来なくていいから」
「あー、えっと……そっか」
「親たちにも伝えといて」
あたしが表舞台に立つことはないんだし。
おにいちゃんはお人好しな笑顔で肩をすくめた。
「わかったよ。話が変わるんだけど、食事の後、友達との約束が入ったんだ。麗を家まで送ったら、また外出する。いいかな?」
「友達? まさか女?」
おにいちゃんは慌てずに、パタパタと手を振った。
シロね。もしおにいちゃんに好きな女ができたら、あたしは一発で見抜ける。おにいちゃんの表情は、ちゃんとわかる。
おにいちゃんは、癖っぽい前髪を掻き上げた。
「野郎どうしでゲームに興じるんだよ。大学時代のサークル仲間なんだ。その後、夜勤に直行する。夜に麗を一人にするのは、本当は避けたいんだけどさ。なんてね。夜勤ばっかりやってるぼくには、それを言う資格なんてないか」
おにいちゃんの口元が、ちょっと引き締まる。
夜勤明けのまま、ひげをそってないみたい。まったく。妹と外食するのよ? ひげくらい、キッチリそっときなさいよね。
「関係ないわ、別に。あたし、ゲームやるときは一人になりたいし」
「ゲームって、ピアズのこと?」
「そうよ。最近は完全にピアズ一本なの」
「ずいぶん気に入ってるみたいだな」
「けっこう馬の合うピアと組んでるから、飽きないのよ。ああいう人間が、こっちの世界にも現れればいいのに」
おにいちゃんの表情が笑顔の奥で動いた。あたしはその変化を読みそこねた。今の表情、なんなの? おにいちゃんはメガネを直しながら、偶然なのかわざとなのか、手で顔を隠した。
「ぼくもピアズの雰囲気は好きだな。それに、中編小説のオムニバスみたいなスタイルだよね。ストーリーが終わらなくて、長く楽しめる」
「おにいちゃんもアカウント作れば? って言っても、家にいる時間がまちまちだから、ピアを組むのが難しいか」
「ぼくがピアズを始めたら、麗、一緒に旅してくれるのか?」
「面倒見てあげる。あたし、いま配信されてる中で、いちばん高いクラスにいるの。まずは、おにいちゃんに追いついてもらわなきゃ。上がってくるまでサポートするわ」
「それは心強いな」
うん、おにいちゃんとの旅なら気楽だわ。絶対に楽しい。
サラダと箸が運ばれてきた。
「ありがとう」
おにいちゃんは、おさげ髪の店員に言った。店員は赤くなった。調子に乗ってる。
そりゃね、おにいちゃんの笑顔は確かにカッコいい。左右対称な、キレイな笑い方をする。高校時代、演劇部のころに笑顔の練習をしたんだって。
あたしも笑顔の練習をしようかなって、急に思った。ピアズ用のリップパッチは感度が高いけど、あたしの笑顔はうまく感知されない。シャリンは、いつも不機嫌そうな顔をしてる。