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「じゃあ時雨さん、いってきます!」
「店は頼んだぞ、時雨」
振り返った私たちに、時雨さんは苦笑しながら「はいはい」と手を振った。
今日もいつものように朝から店を開けてはいるが、あの事件からとくに大きな依頼が舞い込むことはなく、相変わらず閑古鳥が鳴いている柳翠堂。
とくにやることもなかったので、のんびりと店先を掃除していた私に、翡翠が突然「少し散歩でも行くか」と言い出したのが数分前のこと。どうやら翡翠もごたついていた統隠局絡みの事務作業が終わり、ようやく時間が出来たらしい。
時雨さんの後押しもあり、りっちゃんもお昼寝中の今、ふたりきりで出かけられる機会は滅多にないとお言葉に甘えることにしたのだけれど。
「真澄が袴を着ているのは何気にはじめて見たな。わざわざ着替えたのか?」
「えっ! いや、あの、外を歩くなら作務衣じゃない方が良いかなと思って」
──翡翠の隣を歩くのに、あのままはさすがにちょっとね……。
仕事中は動きやすい作務衣を、普段は紬や小紋を着ているが、翡翠とふたりきりで出かけるとなればさすがに私も乙女心というものが出る。
悩みつつも思い切って着替えたのは、目に優しい柔らかな若草色の袴だ。雪輪と桜菊花が散りばめられ、落ち着きながらもどことなく華やかな雰囲気が漂い、着ているだけで上質なものだとわかる。私にはもったいないくらい素敵な袴だ。
「せっかくもらったのに、あまり出かけないから着る機会もなくて……どうかな?」
「そんなの聞くまでもないだろう? 真澄が着ればどんなものでも美しいからな」
さらりと小っ恥ずかしいことを口にした翡翠は、どこなく自慢げだ。
私は頬を染めながら「そうじゃないんだけど……」と口の中で呟いて、小さくため息をつく。翡翠はこういうところが、なんだか少しズレているのだ。
カランコロンと子気味良い下駄の音を鳴らしながら、弥生通りを並んで歩き出す。