「ねえ、油揚げが好きな、優しい嘘つきさん」
「……それ俺のこと?」
「あなたは狐なの、狸なの?」

 その問いに、〈彼のかたちをした何者か〉はむっと眉根を寄せた。
 一瞬本能的に見せた隙に、思わず吹き出してしまった。
 何だ、意外に神の使いって子供じみたところがあるのね。

「狸と一緒にされたくないな」
「……それは失礼しました」

 引っかかってくれた。
 やはり狐には狐なりのプライドがあるのだ。

 カーテンを開ける。外はすっかり紺色の街。グラデーションの名残ももう見えない。
 空にできた穴は、満月の光。
 帰り際に見たそれよりも、力強く私たちの世界を照らしている。

「満月の日くらい、優しい嘘と過ごしたっていいだろう?」
「そうね。ありがとう」
「もう平気?」
「……多分ね」

 その時自分がどんな目をしていたのかは、定かではない。
 本当の「彼」と別れる間際の目とはきっと違っていただろう。
 だって、狐さんのおかげで、私の中にある生霊になりかねないほどの執着は、安全に解けたから。

「不思議なものね。もう一度『彼』の姿を見たら、もうめちゃくちゃに怒るか泣くかするとばかり思っていたのに。糸で操られているのかしら」
「神の使いはそこまでできないよ」

 はぐらかされたようで、私は肩をすくめた。

 狐は時計を見上げる。

「長居はできない。そろそろおいとまさせてもらうよ」
「あ、ちょっと待って」

 私は食器棚から小さなタッパーウェアを取り出し、今夜の油揚げを二、三枚丁寧に入れた。ほんのお礼のつもりだ。
 差し出すと、色黒の顔に真っ白な歯がニッと姿を見せた。懐かしい微笑み。
 玄関先で片手にタッパー、そしてもう片手を私に向かって挙げる。

「今までお前といられて幸せだったよ。でも、お前はこれから先、今まで以上に幸せになれる。間違いない」

 そして数歩先へ歩いて行くうちに、闇の中に溶け込むように、消えていった。

 満月はまだ煌々と私たちの世界を照らしていた。
 明日の世界にもまだ幸福の欠片が落ちていることを示しているかのように。



(第1話 完)