「俺も同じ」
「えっ」

 我に返って顔を上げると、彼の太い人差し指が額を突いた。
 不意を突かれて、無防備にくん、と首を後ろにのけ反らせた。
 これもまた、かつての彼がしばしばやってみせた「いじり方」だ。

「本当の俺は、まだあの旅館の中に取り残されている。たまにそんな気がするんだ」

 一心同体。
 頭に浮かんだのは、カップルを示すありきたりな四字熟語。

 私の心を彼が見透かし読んでいるのではない。
 二人が同じことを同時に考え感じているのだ。

「私も……ずっとあの縁側のソファから、窓の外を見ている気がする。鳥が天を飛んでいくけれど、私は出て行けないの。金縛りみたいに……ずっとソファに縛られているんだ」

 それは口から出任せではなく、毎日毎日夢に出てくる光景だった。

〝幸福な金縛り〟。
 いつしかそんな風に名前を付けてみた。

 決してそこから動きたくない、離れたくない、幸せな思い出に満ちた場所。
 特別何かがあったわけではないけれど(ただ彼がいつものおちょこちょいで小銭をばら撒いてしまっただけ)、温かなひとときが流れた、あの日の記憶。

 朝目覚めれば知らず頬が涙に濡れているのは、夢の中にまで現れる私の執着心のせいだ。

 そう、〝執着〟としか呼びようのない、この思い。
 いつか古典文学のように、生霊となってあの縁側を行ったり来たりしてしまうのではないか、と恐れるほどの思い。

「……だから、私が生霊にならないように、助けに来てくれたんだね」

 ぼそりと呟いた声は、彼――ではない、〈彼のかたちをした何者か〉の耳にも届いていたようで、困ったような表情でゆっくりと首を縦に振った。実にゆっくりと。

「ごめん。本当の『俺』は、もう――」
「言わないで。わかってるの」

 すぐさま〈彼のかたちをした何者か〉の言葉を遮った。
 未だに〈彼のかたちをした何者か〉の正体が、神なのか、神の使いなのか、それとも霊なのかは判断がつかない。
 でも〈彼のかたちをした何者か〉が、悪意ではなく優しさゆえに私の目の前に、「彼」の姿をとって現れたことは、何となく伝わってきている。

「海の向こうで、新しい仕事、頑張っているんだよね」

 問いかけるつもりではなく、独り言のつもりで口にしたつぶやきに、〈彼のかたちをした何者か〉は応える。

「そうだね。『俺』には人並みならぬ音楽の才能があるみたい」

 静かなその声は、少し「彼」の本当の声とは異なって聞こえた。炭酸ジュースからほんの少し気が抜けたみたいに。満開から少し過ぎた花のように。

 やっぱり、「彼」ではない。
 でも「彼」の心を伝えに、ここにやってきた、使いの者。
 私の金縛りを解きにやってきた者。

――私の目の前にいるのは、優しい嘘つき。