私が違和感を覚えていることには一向に気づかぬ様子で、〈彼のかたちをした何者か〉は、「自動販売機の下に10円玉が落ちちゃってさ~」と、これまでと全く変わらぬ調子で話し続けている。

 そうだ。私たちが付き合っていたころ、彼はよく小銭を落とした。
 飲み屋のレジの前で。
 夏祭りの暗い屋台のそばで。
 伊豆の旅館のソファで。

「……懐かしいな」

 彼の声に、どきっと顔を上げた。
 まるで、私の頭の中を見透かしているかのように、私の思い出に自身の意識をシンクロさせるように、相槌を打った?
 共鳴し合うかのように。
 まるで私たちが鏡であるとでも言うかのように。

 やはり、これは彼ではない。
〈彼のかたちをした何者か〉だ。

 一体あなたは誰なんですか――

「懐かしいよね! 本当にドジなんだから、笑えちゃうよ」

 あれ。

 またもや口が勝手に動いている。
 マリオネットのように「幸せなパートナー」を演じる私。
 それこそ、〈私のかたちをした何者か〉になってしまったかのように。
 他に律せられ、私の石では動かない私のかたちをした人形。

「伊豆の旅館は笑えたな。広縁で財布ぶちまけて、ボロボロのソファの下に小銭が入り込んでさ」

 ケラケラといつものように子供じみた笑い声を上げている。

「財布をレシートでいっぱいにしているのが良くないんでしょ」

 そんな彼に、年上の彼女らしく冷静な突っ込みを入れる。
 おや、今度は私の意志で出た言葉だ。本当にしゃべりたいと思ってしゃべった言葉。
 今だけ、マリオネットを操る糸が、緩んだのか。

「まーね。で、あの時ソファの下だけじゃなくって、ちっさい冷蔵庫の下にまで入っていっちゃったなー。何枚かは諦めたけど、あの時の小銭、今どうなってんだろ?」
 ふと真顔になって首を傾げる。
 訪れた沈黙。

 掃除スタッフが見つけてネコババしちゃったと思うよ、と言いかけて、やめた。

「……あのまま、今も冷蔵庫の下で誰かに見つけてもらえるのを待っているかもね」

 掃除スタッフにも、翌日からの宿泊客にも気づかれないまま、冷蔵庫の下で眠ったままの10円玉。
 私たちが再びあの旅館の、あの部屋に泊まるまで、決して救い出してもらえないかもしれないコイン。

 想像するだけで、胸が締め付けられる。


 本当はあの旅館に取り残されているのは私だ。